「男はつらいよ」記念すべき第1作のマドンナに光本幸子さんはなぜ選ばれたのか

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 1969年8月、のちに一人の俳優が演じた最も長い映画シリーズとしてギネス記録に認定される「男はつらいよ」が公開されました。記念すべき第1作でマドンナを演じたのが光本幸子さん(1943~2013)です。数多の俳優の中からなぜ光本さんが選ばれたのか? 朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回は、寅さんが最初に惚れた「御前さまのお嬢さん」、光本さんの人生を追います。

「男はつらいよ」第1作のマドンナ

 祭りや縁日とともに北に南に旅を続けたフーテンの寅さんが言っていた。

「ほら、見な。あんな雲になりてえんだよ」

 風の吹くまま気の向くまま、四角いトランクを提げてポクポク歩く寅さん。だが、寝ても覚めてもまぶたの裏に浮かぶのは、あの人の面影ばかり。映画「男はつらいよ」シリーズの主人公・車寅次郎の恋は純粋だった。

 さて、1969年公開の第1作で、すでに寅さんは最初の失恋を経験している。マドンナは和服が似合う冬子だった。

 東京は葛飾柴又、帝釈天こと題経寺の住職の娘。風来坊の寅さんにとっては「高嶺の花」だ。ところが、おちゃめな面もあった。昼はオートレースに誘われ、夜は居酒屋の焼き鳥で一杯という流れになったものだから、寅さんが本気になるのも無理はない。

 実は冬子は、憂さ晴らしに寅さんをデートに誘っただけだった。大学教授の婚約者がおり、シリーズ最初の恋ははかなく散る。

 あふれる涙をこらえるかのように、寅さんが素直な思いを告白する場面がある。

「お嬢さん、お笑い下さいまし。わたしは死ぬほどお嬢さんに惚れていたんでございます」

 前書きが長くなったが、冬子を演じたのは劇団新派の舞台で活躍した光本幸子(本名・深谷幸子)さんだった。

「あっさり寅ちゃんを振るので『魔性の女』なんて雑誌に書かれました。でも、とんでもない! 寅ちゃんの幸せを誰よりも祈っていたのは冬子なんです」

 以前、きっと前を見据えるように私の取材にそう答えた。冬子という役柄を演じたに過ぎないのに、どこか一体化しているような感じにも受け取れた。マドンナを演じたほかの俳優にも言えることだが、寅さん映画には役柄を超えてその人になりきってしまう不思議な魔力がある。ちなみに、マドンナとはイタリア語で「我が淑女」の意味がある。

 それにしても、どうして光本さんが初代マドンナに選ばれたのだろう。

 実を言うと、製作・配給の松竹は、当時、寅さん映画にあまり期待を寄せていなかった。日本文化の薫り漂う文芸路線を歩んでいた映画会社だっただけに、テキヤ風情の男が主人公の映画なんて所詮B級娯楽映画だとでも見なしていたのかもしれない。低予算だったこともあり、大物の映画俳優に声を掛けにくかったという台所事情もあったのだろう。

「でも、寅さんが惚れるくらい美しい女性でないとドラマは成立しない」とは原作者でもある山田洋次監督(92 )。

 光本さんは新橋演舞場に出ていたとき、客席の後ろのほうから双眼鏡で自分を追っている人がいたのに気づいた。視線が合うと双眼鏡を下に置く。照明の光がレンズに反射するのですぐに分かったという。

 山田監督だった。当時まだ38歳の青年監督だった。

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