麻倉未稀 乳がん発覚で文字通りの「八方ふさがり」を経験… 改めてわかった名曲「ヒーロー」の偉大さ
映画の挿入歌として、洋楽の原曲がヒットし、複数の日本人アーティストによりカバーされた『ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO』。中でも最大のヒットとなったのは、TBSドラマ『スクール☆ウォーズ~泣き虫先生の7年戦争~』の主題歌となった、麻倉未稀(63)によるカバーだった。麻倉は『ヒーロー』の精神を今も持ち続け、乳がんに罹患した後の活動にも生かしてきた。
アイドル的な声じゃない
「歌手デビュー前には婦人モード誌『装苑』の専属モデルもやっていました」
大阪出身の麻倉は、高校進学と同時に上京し、レッスンを受けながら歌手デビューを目指していたが、自身の声変わりもあって「アイドル的な声じゃない。少し様子を見よう」とデビューが見送られていた経緯があった。
時代はまだまだアイドル全盛期。麻倉自身も「アイドルの道を通っていかないといけないという風潮があった」と話すが、「性格も向いていなかった」という。なかなかその道が見極められない中で、雑誌『ミセス』の専属モデルを務めていた3歳上の姉に勧められたのが、『装苑』専属モデルになったきっかけという。
歌手デビューのチャンスが訪れたのは1981年。オンワード樫山のレディースファッション「ジェーンモア」のCM曲として話題となり、問い合わせも多かったという『ミスティ・トワイライト』のレコード化に際し、オーディションが行われ、これに合格。デビューが決まった。
当時のレコード会社は、制作や宣伝、営業がそれぞれ別々の部署で動くのが一般的な中、同曲を手掛けたキングレコードでは、これらの部署を横断させ、一体となったチームを作り上げ、麻倉をバックアップし、麻倉は「都会派シンガー」として浸透していった。
「身長が私より15センチも高い姉と違ってモデルは長く続けられると思っていなかったし、歌をメインに考えていたのでデビューが決まってうれしかった」と振り返る。
ただデビュー後はその忙しさを身をもって体験した。
「当時、アイドルは~時間しか寝てない、みたいな話をよく聞いていて、そんなわけないでしょ、ぐらいに思っていたんですが、北海道から九州まで毎週キャンペーンで出掛けていて。飛行機で飛んで、泊まりもせずに帰ってきて。でも逆に東北なんかはまだ新幹線が開通する前だったので、急行や特急で行って泊まることもあって。今よりは余裕が持てる環境だったかもしれないけれど、とにかく忙しかった」
ある地方都市でのキャンペーンでは、現地のバンドに、リハーサル時よりもかなり速いテンポで本番の演奏をされたこともあるという。「音域が広くて、上の方の音域だとテンポが速いと歌えないと思ったけど、意地で歌い切りましたね。一緒に出ていた岩崎宏美さんに『あなたよく歌えたわね』といわれたほど」と苦い思い出を振り返る。20年ぐらい経ってから、このときのバンドのコンサートマスターに会った際には、そのことを覚えていて「あのときはごめんね」という言葉をもらったという。
フラッシュダンスからヒーローへ
デビュー曲にも多用されていた英語。その後の曲からも、英語詞のイメージが強い麻倉だが、「当初は全然ダメだった」と苦笑する。
当時の所属事務所の近くに外国人モデルの事務所があり、そこにいたネイティブのモデルたちに発音を教わり、耳で覚えていくうちに英語詞も苦にならなくなったのだという。
そんな中で83年、今度は映画『フラッシュダンス』の主題歌でアイリーン・キャラが歌った『フラッシュダンス…ホワット・ア・フィーリング』のカバーを歌うことになった。TBSドラマ『スチュワーデス物語』の主題歌として『What a feeling ~ FLASH DANCE』をシングルで発売した。
「あのときはとにかくレコーディングまで2週間ぐらいしかなくて。それなのに日本語詞も書いてといわれて」と戸惑ったが、アイリーン・キャラの原曲を何度も歌って、その日本語の対訳を含め、「直観に近い感じでまとめた」という。
ドラマは大ヒットし、自身の歌を多くの視聴者が楽しんだ。その経験は84年に発売した『ヒーロー…』にも連なる。
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