世界初の「空母機動部隊」を作った異端の日本軍人――「おのれの頭で考えつづけた」小沢治三郎の独創性とは?
日本型の「指揮統帥文化(コマンド・カルチャー)」にどっぷり浸かり、艦隊決戦の夢を追う海軍指揮官の中にあって、ひとり最善の方策を、自分自身の頭で考え続けた将軍がいた。
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軍事史に詳しい大木毅さんの新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』は、日米英12人の指揮官たちの決断の背後に潜む「教育」や「組織文化」、「人材登用システム」に着目したユニークな評伝だ。
同書で取り上げられた軍人の一人が、日本海軍にはきわめてまれな先駆的頭脳を持ち合わせていた小沢治三郎だ。以下、同書をひもときながら、彼の生涯と戦歴を追ってみたい(『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第7章をもとに再構成)。
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宮崎県の旧家に生まれた小沢は、少年時代から柔道に熱中する。一方で喧嘩好きな悪童としても有名で、不良青年を投げ飛ばして新聞沙汰になり、旧制宮崎中学を退学処分となる。やむなく上京して私立成城中学に入るが、ここでも神楽坂を散歩中、のちに講道館柔道の神様と謳われた三船久蔵(みふねきゅうぞう)を叩きのめしたというすさまじい武勇伝を残す。海軍兵学校に合格して井上成美(いのうえしげよし)、草鹿任一(くさかじんいち)らと同期の37期生となるが、卒業時の席次は179人中45番。決して優秀な成績だったとはいえない。その後、駆逐艦や戦艦に乗り組み、海軍大学校での研鑽を経て、海軍士官として成長してゆく。
昭和6(1931)年、海軍大学校の教官となった小沢を迎えたのは、教育現場の硬直した空気だった。このころの海大は日露戦争の名参謀・秋山真之(あきやまさねゆき)が制定した教科書「海戦要務令」を金科玉条としていた。すなわち来襲するアメリカ艦隊を水雷戦隊や潜水艦の攻撃で消耗させ、最後に艦隊決戦で撃滅するという「漸減邀撃(ぜんげんようげき)」作戦構想を、未来の提督に刷り込むことこそが教育の目的だった。
「諸君は本校在学中そんな本は一切読むな」
しかし航空機などの新兵器による戦略・作戦環境の変化を直視せず、旧態依然たる方針を墨守(ぼくしゅ)するなど、小沢には到底肯(がえ)んじられるものではなかった。したがって彼の講義は、学生の自主性を重んじるものとなる。今日でいうシミュレーション、ルールにしたがい戦闘海面を想定した広間で駒を動かす「兵棋(へいき)演習」で自得させる方法を選んだのだ。ちなみに前出の「海戦要務令」については、一顧(いっこ)だにしていない。その一節を読み上げて、その意味を問うた学生に対して放った言葉は、「諸君は本校在学中そんな本は一切読むな」と、にべもない。
昭和12(1937)年、小沢は連合艦隊参謀長という要職に就く。このポストにあって、彼の独創性は重要な作戦・戦術構想の端緒を開く。航空機の威力に注目していた小沢は、従来のように空母を索敵・警戒に用いるのではなく、その集中運用を提唱する。すなわち戦艦や巡洋艦部隊にばらばらに配属されていた空母を、一人の指揮官の下に集めて「航空艦隊」を編成すべしと。
この構想は2年後、自ら第1航空戦隊司令官となってさらに前進する。空母「赤城(あかぎ)」飛行隊長の淵田美津雄(ふちだみつお)中佐の要望を容れ、実験を繰り返した後、意見書を海軍大臣に提出する。その結果、昭和16(1941)年、日米開戦の年に誕生したのが、大型空母4隻を基幹とする第1航空艦隊だった。世界初の、空母機動部隊の誕生である。
何が起こるか予想もつかぬ混沌が戦争の本質
この後の小沢の戦歴に対する評価は、毀誉褒貶が相半ばする。かつては山本五十六(やまもといそろく)や山口多聞(やまぐちたもん)に匹敵する名将だと謳われもしたが、近年の研究の進歩によって、マリアナ沖海戦や比島沖海戦での作戦指揮に疑問が呈されるなど、その名声が陰りを見せていることは事実だ。しかし小沢には、なお傑出した点があると大木氏は指摘する。
「それは独創性だ。
昭和海軍の将星のほとんどが、日本型『指揮統帥文化』にどっぷりと浸かり、教条的な作戦・戦術のもと、現実には生起し得ない日本海海戦型の艦隊決戦を夢見たのに対し、小沢は、そのときどきに置かれた状況において最善の方策は何であるかを、おのれの頭で考えつづけた。
プロイセンの軍事思想家クラウゼヴィッツは、何が起こるか予想もつかぬ混沌が戦争の本質であるとの理解を示した。今日、世界の軍隊にあっては、そうした戦争の不確実性に対応するには、個々の指揮官が自主独立の知性を磨きあげ、予想外の事態に即興的に対応できるようにするほかないとの認識が主流になっている。
かかる用兵思想の流れから顧みれば、小沢治三郎は、既存の規範に唯々諾々としてしたがう者が多かった昭和の軍人には珍しい、内在的な発想を持つ先駆的頭脳だったのかもしれぬ」
「おのれの頭で考えつづけた」小沢の独創性は、平成の日本社会においても、求められているのではないだろうか。
※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)に基づいて作成したものです。