袴田事件再審 姉のひで子さんが法廷で読んだ「弟の悲しすぎる手紙」と巖さんに知らせなかった「母の死」
有罪立証や求刑は放棄した例もあるが…
事件発生から58年目、第1次の再審請求(1981年4月)からでも43年、「袴田事件」の再審(静岡地裁・國井恒志裁判長)は、巖さんが不在の中、ついに結審した。
検察は「複数の証拠が(巖さんが)犯人であることを指し示している。犯行は冷酷、残忍で、(判決確定から)33年間、勾留されていたとはいえ、量刑を変更するものではない」と巖さんに死刑を求めた。検察官とて巖さんが殺人犯だと思っているはずはない。このような非人間的なことが「組織防衛」だけでできるのが不思議である。
殺人犯とされた人の再審では、1985年に熊本県松橋町(現・宇城市)で男性が刺殺された事件の被告の再審や、2003年に滋賀県東近江市の湖東記念病院で看護助手だった西山美香さんが患者を殺したとされる事案の再審公判でも、検察は有罪立証や求刑は放棄している。しかし、免田事件はじめ1980年代に冤罪だった死刑囚が相次いで生還した4つの再審では、いずれも検察は死刑を求刑している。再審で改めて死刑求刑したのは、同じ静岡県の島田事件(1989年、再審無罪)以来だ。
この日、いつものように巖さんに「静岡に行ってくるよ」とだけ言い残して家を出たというひで子さんは、白いジャケットに身を包み、首元には青い大きなブローチを付け、弁護団席の最前列に座った。原審では控訴審の判決(1976年)で東京高裁の法廷にいたことがあるが、弟への死刑求刑を聞くのは今回が初めてだった。それでも全く動じることはない。閉廷前に「袴田ひで子でございます」と切り出し、用意してきた意見陳述文を読み上げた。
「あまりにも悲しい」弟の手紙
まず、ひで子さんは、巖さんが獄中から母親(ともさん)に宛てた手紙を紹介した。
「息子よ、お前はまだ小さい、分かってくれるか、チヤン(註・巖さんのこと)の気持ちを、勿論分かりはしないだろう、分からないと知りつつ声の限りに叫びたい衝動に駆られて成らない(中略)今朝方、母さんの夢を見ました。元気でした、夢のように元気でおられたら嬉しいですが、お母さん、遠からず真実を立証して帰りますからね」
そして、ひで子さんは以下のように話した。
「弟の手紙です。そして47年7カ月、投獄されておりました。獄中にいる時は、辛いとか悲しいとか、一切口にしませんでした。釈放されて10年経ちますが、いまだ拘禁症の後遺症と言いますか、妄想の世界におり、特に男性への警戒心が強く、男性の訪問には動揺します。玄関の鍵、小窓の鍵など知らないうちに掛けてあります。就寝時には電気をつけたままでないと寝られません。釈放後、多少回復しているとは思いますが、心は癒えておりません。
私も一時期、夜も眠れなかった時がありました。翌日の仕事に差し支えがあるため、(眠るために)お酒を飲むようになり、アルコール依存症のようになりました。今はと言うよりずいぶん前に回復しております。今日の最終意見陳述の機会をお与えくださいまして、ありがとうございます。長き裁判で裁判長はじめ、皆様には大変お世話になりました。58年闘ってまいりました。私も91歳でございます。巖は88歳でございます。余命いくばくもない人生かと思いますが、弟巖を人間らしく過ごさせてくださいますよう、お願い申し上げます」
実は、巖さんが前記の手紙をに出した時、すでに母ともさんはこの世にいなかった。一審判決(1968年9月11日)に衝撃を受け、みるみる衰えて亡くなっていたのだが、そのことを巖さんには知らせていなかった。ひで子さんはかつて筆者に「長兄の茂治も私も家族は、巖に面会してもしばらくは母親が死んだことは伏せていたんですよ」と語っていた。あまりにも悲しい手紙だった。
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