「亡くなった妻が有機野菜で料理してくれたことを思い出し…」 元巨人投手・河野博文が農家になった理由
「野球やるよりしんどかった」
妻の一言は河野さんの転機となった。群馬に滞在中、元西武選手の駒崎幸一さん(64)に出会い、県内で農業をしていることを知った。極力農薬を使わない有機農業だそうだ。
「じつは09年の夏に妻が亡くなりましてね」
河野さんは振り返る。
「妻が“野球選手は体が資本だ”と言って、有機野菜で料理してくれていたことをふと思い出したんです。農業なんて考えもしなかったんだけど、心機一転、新しい人生を始めたいという気持ちになりました」
その年、秋が深まった頃から有機農業の修業を開始。高崎で玉ねぎを栽培していた女性を手伝う一方で、畑の一角を間借りして駒崎さんからあれこれ教わりながら自力で玉ねぎを育てた。
11月に耕し、12月には苗を手で植える。
「とにかく疲れましたね。腰をかがめての作業でしょ。慣れないうちは野球やるよりしんどかった。収穫は6月に始まって8月まで続くから、暑い盛りは朝5時前に起きて、涼しいうちに収穫を済ませるんですよ。収穫が終わると根をカットしなければいけなかったり、とにかく細かい作業が多くてヘトヘトでしたね」
幸いにも玉ねぎは元気に育ち、“やっていける”と手応えを感じた。
「玉ねぎを廃棄した時のやりきれない気持ちを思えば…」
11年からは広い土地を借り、規模を広げて本格的な玉ねぎ作りを始めた。苗の植え付けのため専用の機械を借りて自ら運転。定期的に有機肥料を施し、大事に育てたところ、じつに40トンもの玉ねぎを収穫することに成功した。
ところが重大な問題に直面する。期待したほど売り先がなかったのだ。
「売り切れずに半分を廃棄せざるを得ませんでした」
これを教訓に、河野さんはさっそく営業活動を開始した。群馬はもちろん、埼玉、東京、神奈川にあるスーパーのバイヤーを訪ね、店に置いてほしいと頭を下げた。生でも十分甘く、他の生産者との差が出るので生で食べ比べをしてもらった。
店頭販売も買って出た。身に着けたのは、背番号の「40」が縫い付けられた巨人時代のユニフォーム。
「お客さんからサインや写真を求められたり。うれしかったですね。店頭で“玉ねぎいかがですか”と頭を下げて客寄せするんですが、抵抗はなかったですよ。だって玉ねぎを廃棄した時の、あのやりきれない気持ちを思えば、ぜんぜん」
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