税金を「仕方なく払うもの」から「自発的に払うもの」へと転換させた二人の天才哲学者の名前
税金なんてできれば払いたくない――これが多くの日本人の本音だろう。しかし、いわゆる近代国家成立期に、税金を「仕方なく払うもの」から「自発的に払うもの」へと転換させた二人の天才哲学者がいた。
速報「娘はフェイク情報を信じて拒食症で死んだ」「同級生が違法薬物にハマり行方不明に」 豪「SNS禁止法」の深刻過ぎる背景
速報「ウンチでも食ってろ!と写真を添付し…」 兵庫県知事選、斎藤元彦氏の対抗馬らが受けた暴言、いやがらせの数々
京都大学教授の諸富徹さんの著書『私たちはなぜ税金を納めるのか 租税の経済思想史』(新潮選書)から、二人の天才哲学者、すなわちホッブズとロックの租税論に関する記述を再編集して紹介しよう。
***
私たちはなぜ税金を納めるのか
私たちはなぜ、国家に対して税を負担するのだろうか。
この根源的な問いに対する有力な答は、イギリス市民革命期のふたりの哲学者、すなわちトマス・ホッブズ(1588~1679)とジョン・ロック(1632~1704)によって与えられた。――租税とは、国家が私たち市民に提供する生命と財産の保護、このふたつの便益への対価である。
これは、現代に生きる私たちにとっては当然で、いささか教科書的で、あまり目新しい論理とは思えないかもしれない。しかも、市民の生命と財産の保護ならば、絶対王政や封建時代の領邦国家ですら、提供していたといえるかもしれない。だとすれば、「対価としての租税」という考え方は近代国家特有のものではなく、時代を超えてそもそも租税とはそういうものだ、という考え方さえできるのではないか。
しかし、ホッブズとロックの思想の革命的意義は、「国家」像、あるいは「国家の担い手」像の転換にあった。国家の担い手(ホッブズの言葉をかりるなら「製作者」)とは神ではなく、神によって権限を授与された王(いわゆる「王権神授説」)でもない。それは市民なのだ。
市民は国家の従属的な存在ではない
市民はもはや国家の従属的な存在ではなく、自ら国家を製作する主体になったと彼らは考えた。「生命と財産の保護」は、上から恩恵として与えられるのではなく、自ら勝ち取ったものなのである。お互いが生存を求めて血で血を洗う闘争を行うのを停止し、契約によって国家を設立し、その下で平和を樹立する。その国家に、生命と財産の保護という機能を担わせるために、それに必要な経費を市民は自発的に拠出するのだ。
ここに、租税を国家権力による「苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)」とみる受け身の納税倫理から、市民がその必要性を自覚して租税を負担する「自主的納税倫理」への転換が生じた(島恭彦『近世租税思想史』)。市民が税を納めるのは、あくまでも国家がこの機能を果たしている限りにおいてであり、もし国家が逆に、市民の生命と財産を脅かす存在になったならば、市民は納税を停止するだけでなく国家を転覆させ、新しい政府でもってそれに代える「革命権」を保持するとされた。
租税は、議会を通じた市民社会の同意のもとに徴収され、その使途も予算審議を通じて、市民社会がコントロールする権限を獲得した。これらすべての点において、近代国家の租税観念は、絶対王政や封建時代の領邦国家における租税観念と根本的に異なっている。
こうしてホッブズとロックは、社会契約論にもとづく国家論を樹立したことで、同時に、近代国家における租税に正当性を付与することに成功した。イギリス市民革命の動乱の中で、国家を一からつくり直さなければならなかったからこそ、彼らは、国家のあり方について根源的な問い直しを行うことができた。
革命的状況の中で理論を鍛え上げたことで、彼らの租税根拠論は現在に至るまで風雪に耐え、近代国家を支える租税理論の支柱であり続けている。ここに彼らの偉大さがあり、私たちが「租税とは何か」という問いを発して、その本質について考えるとき、つねに立ち返らなければならない拠りどころがある。
※本記事は、諸富徹『私たちはなぜ税金を納めるのか 租税の経済思想史』(新潮選書)を再構成して作成したものです。