90歳になった東海林のり子さん 4000件以上の事件取材で、最も印象に残っているものは
事件現場は「あの部屋だと思う」
事件現場は3階建ての団地ということだけがわかっていましたが、どこの部屋かわからなかった。その時、私、ベランダを見たんです。すると、3階の一番端の部屋のベランダで、アロエが枯れていた。あんなに強い植物がなぜ、枯れているんだろうと思いました。
そのベランダをよく見ると、男の子のタンクトップが干してあって、何日も取り込んでいない様子でした。これを見て、「あの部屋だと思う」と言ったら、その部屋が事件現場だったんです。
毎日毎日いろんな現場に行っていたので、感覚が研ぎ澄まされたのかもしれません。私、刑事になればよかったかな(笑)。何か嗅覚みたいなものがあるんです。だから、他のテレビ局よりも先に現場に到着したり、先にインタビューできたんだと思います。
ただ、納得のいかない現場もありました。1986年6月に海洋調査船が沈没したという事件があり、記者会見に行きました。会見場で、新聞社や週刊誌の記者が名刺を渡していたので、私も「東海林です」と言って渡したら、「ワイドショーには話さない」と言われて……。「わかりました」と言って、すぐに帰りました。
誇りを持って仕事をやってきましたが、そういう風な目で見られるのが悔しかったですね。どんな人よりもたくさん取材したし、どんな人よりもたくさんインタビューして、事件を伝えてきた自負はあります。仕事のモチベーションになったのは、深く取材しようという思いと、他局に負けちゃいけないという思いです。
ある時、子どもの誘拐事件があって、私がその子どもの親御さんと信頼関係ができて、単独でインタビューを取れそうだったんです。でも、後から、「報道の代表が話を聞きます」と言われました。その代表が、私が当時リポーターを務めた番組を制作しているフジテレビでした。
それで、フジテレビの報道部長のところに行って、「私が取り付けたのに、何で私がインタビューできないんですか」と抗議しました。「ごめんなさい」と謝っていましたが……。そういう悔しい思いがあるから、余計に頑張れるんです。
自分がやらなければいけないという責任感もあったと思います。会社からは、いつでも現場に行けるように、前もって1週間分の拘束料をもらっていました。他のリポーターさんたちも、何か起きると、「どうせ、東海林さんが行くわよ」と いう感じでしたね。
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