“たまたま”が重なってドラ5で広島入り…巨人の大投手を真似てフォーム改造した小林敦司さんのいま「プロ野球選手だったという実感がない」

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11年間でわずか1勝、引退を決意

 サイドスローに転向してすぐに、初めて一軍キャンプ帯同を許された。結局、この年の一軍昇格はなかったものの、翌95年に一軍に招集された。プロ5年目にして、ついに一軍マウンドに立つ機会を得たのだ。

「6月に一軍に呼ばれてから、1カ月ほどまったく投げる機会がなかったんです。僕がプロ入りしたときの二軍監督が三村(敏之)さんで、このときは一軍監督になっていました。そして、ようやく7月になってプロ初登板しました。甲子園球場の阪神戦でした。いきなりホームランを打たれましたけどね(苦笑)」

 ほろ苦いデビューとなったものの、7月29日には延長11回から6番手で登板し、その裏に町田公二郎のサヨナラホームランが飛び出し、小林にプロ初勝利が舞い込んだ。

「自分が勝利投手だという実感は何もなかったです。三村さんから、“お前が勝利投手だぞ”って言われて、“あっ、そうか”って気づいたぐらいでしたから。町田さんのホームランは、たまたまバックスクリーンに飛び込んで、グラウンドに戻ってきていたので、そのボールを拾って、記念にもらいました」

 結果的に、この1勝が小林にとって、プロでの唯一の白星となった。96年にはヒザの手術をし、まったく投げることができなくなった。リハビリの末に、99年にようやく復帰したものの、翌00年には戦力外通告を受けた。01年には1年だけ千葉ロッテマリーンズに在籍したが、まったく結果を残すことができずに再び戦力外通告を受けることになる。

「本来ならば背水の陣で臨まなくちゃいけないのに、守りに入ってしまって、ボールを置きにいった結果、ヒットは打たれる、フォアボールは出すで、まったく結果を残せませんでした。このときはまだ現役続行を考えていたので、トライアウトを受けることにしました。でも、結局は辞退することになってしまったんです」

 トライアウト直前、小林は肩を痛めてしまった。プロ11年間で肩を故障したことは一度もなかった。ぶっつけ本番でテストに臨むことを決めたが、本番前の練習時点でまったく投げられなくなってしまった。

「この日はウォーミングアップだけで辞退を決めました。でも、おかげで踏ん切りがつきました。“もう二度とユニフォームを着ることはないんだな”って」

 球場を後にする車内で、東京・赤坂で料亭を経営している父に電話をかけた。このとき小林が父に告げたのは、「来年から、そこでお世話になることに決めたから」というひと言だった――。
(文中敬称略)
後編ではパティシエを目指して店を持つまでの苦労話を紹介。

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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