“たまたま”が重なってドラ5で広島入り…巨人の大投手を真似てフォーム改造した小林敦司さんのいま「プロ野球選手だったという実感がない」
ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込み、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手の現在の姿を描く連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第11回は、広島東洋カープ、千葉ロッテマリーンズで投手として活動した小林敦司さん(51)です。現在は代官山でパティシエとしてお店を構える小林さん。「一度もエースになったことはない」のに、どうしてプロの道に進んだのか。前編ではその辺りのお話から伺います。(前後編の前編)
【写真を見る】入団時の写真と、オーナー兼パティシエとして働く現在の姿
プロ野球の世界からパティシエに転身
東京・代官山――。駅から徒歩2分という好立地に店を構える「2-3Cafe」の店主・小林敦司。彼はかつて、広島東洋カープに10年、千葉ロッテマリーンズに1年、計11年間プロ野球界に在籍した。この間の成績は59試合に登板して1勝1敗、決して好成績を残したわけではない。2001(平成13)年オフ、31歳のときに現役を引退し、一からの修業を経て、パティシエとして独り立ちした。
「自分がプロ野球選手だったという実感があまりないんですよ(笑)」
パティシエらしい爽やかな佇まいで小林は笑う。現役引退後すぐに飲食の世界に飛び込み、およそ10年の修業期間を経て、彼がこの地に店をオープンしたのが2011年4月のことだった。すでにプロ野球時代よりも長い時間が流れ、小林は完全にオーナー兼パティシエとしての人生を歩んでいる。
昼の営業が一段落し、ディナー営業の仕込みを終えたほんのひととき、彼の「これまで」を聞くことになった。「面白い話ができる自信はありませんけど……」と謙遜する小林は一体、どのような半生を過ごしてきたのか――。
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「中学、高校時代と、一度もエースになったことはないんです」
開口一番、小林はそう切り出した。東京・赤羽の中学時代はレギュラーにもなれず、千葉・拓大紅陵高校時代は控え投手、高校3年生の夏も1回戦で一度途中登板しただけだった。
「野球が好きだったので高校でも続けたけど、もちろんプロになれるなんて思ってもいなかったし、“できれば大学でも野球が続けられればいいな”と考えている程度の選手でした。でも、たまたま埼玉の川越商業との練習試合で投げるチャンスをもらって、たまたまいいピッチングをしました」
本人が「たまたま」と繰り返すこの試合は、対戦相手の川越商業の投手がプロ注目選手だったこともあり、スカウトが球場に来ていたことが小林の運命を変えることに。当日まで「自分が指名されるとは思っていなかった」と語る小林だが、90年ドラフト5位で広島東洋カープから指名されたのである。
「一応、社会人野球からの内定はもらっていたんですけど、カープから指名されたということで、プロ入りを決意しました。当時は、今の子たちのようにしっかりした考えもなく、“指名されたのだから入るのが当然だ”という考えで、選択肢はそれしかないと思っていました」
アマチュア時代には、誇るべき実績は何もなかった。それでも、「真っ直ぐとスライダーしか投げられない投手」のプロ野球選手としての第一歩が始まった。
巨人・斎藤雅樹を真似てサイドスロー転向
プロ入り後、なかなか結果が出なかった。この頃、カープは自前で有力選手を発掘、育成すべく、ドミニカに「カープアカデミー」という野球学校を設立したばかりだった。小林のプロ入りとほぼ同時に誕生したアカデミーに、「第一号」として派遣されることが決まった。
「僕ともう一人、ドラフト外で入った選手と2名が派遣されることになりました。一応、第一号ということで行ったんですけど、到着してすぐに洪水になってしばらく練習ができませんでした。それに、現地に着いてすぐに胃腸炎になってしまって、ドミニカではほとんど野球をやっていないんです(苦笑)」
プロ2年目となる92年、右ヒジを痛めた。本人曰く「それ以降は何をやってもダメな状態」が続く。プロ3年目を迎えた。高卒入団とは言え、そろそろ結果が求められる頃だ。そんなある日、小林にとっての転機が訪れる。
「この頃は、“このままでは戦力外だ”という思いが強くなっていました。いくら投げてもストライクが入らない。球は遅いし、コントロールも悪い。そんなある日、当時大活躍していた斎藤雅樹さんの真似をしてサイドスローから投げてみたんです」
当時、読売ジャイアンツのエースだった斎藤の投球フォームを真似して投げてみると、自分でも驚くほど手応えを感じた。ある日の居残り練習で投球練習をしていると、ピッチングコーチもまた絶賛した。
「古沢憲司さんがピッチングコーチで、今はオリックス一軍ヘッドコーチの水本(勝己)さんがブルペンキャッチャーだったんです。2人の目の前でサイドスローで投げてみたら、“なかなかいいぞ”ということになりました。僕としても、“このままではどうせクビになるんだから、ぜひ挑戦しよう”と本格的に取り組むことにしました」
サイドスロー転向後、懸案だったコントロールが安定し、球速もかなり上がった。何も失うものがなかった当時の小林に、ようやく希望の光が差し込んだのだ。
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