「言葉は悪いが、俳優業は嘘をつく仕事」…石橋凌は“まったく違う”2つの仕事をいかに両立させているのか
理想と現実のはざまで
1978年にシングル「野良犬」でデビューし、翌年にはアルバム「A.R.B.」を発表したが、そこには石橋がやりたかったことと現実との乖離が生じていた。
「ロックというのは、自分の思いや考えを歌に乗せて伝えられるものだ」
という“原点”を持つ石橋に対し、当時の事務所は「社会的、政治的な歌を入れるな」との考えだったため、相容れなかった。ファーストアルバムの1曲「喝!」は、経済大国になりながら自殺者の多い日本を歌ったものだが、「これが事務所の逆鱗に触れた」ため、事務所を退所。その後は「中古のワンボックスカーで日本中のライブハウスを回る活動となった」。
だがそれは、「それまで思っていたことができるようになった」ことの裏返しでもあり、徐々にではあるが、それを支持するファンも増えていった。
デビューから10年となった88年には、日本武道館ライブを敢行。多くのファンが熱狂したライブは、ARBの足取りが確かであったことを証明していたが、それでも「茶の間には入っていけなかった」と石橋。
「欧米のミュージシャンはテレビでも(社会的、政治的なメッセージを含む歌を)プレイしているのに、それができなかった」
松田優作の影響
ARBが武道館に到達する2年前、石橋は松田優作が監督した映画「ア・ホーマンス」で本格的な役者デビューを果たし、キネマ旬報の新人男優賞を獲得する。
「自分の夢もここまでだな、と思ったときに必ず誰かが登場して俺を救ってくれたんですよ」
石橋は松田との出会いをこう振り返る。プロデビューのきっかけをくれた岸川氏との出会いと同様だ。
当時の石橋は20代半ば。徐々に浸透してきていたとはいえ、コンサートの動員やレコード売り上げの伸びなどに悩み、「分厚くて高い壁」にぶち当たっていた。出会いを得た松田に対し、相談に乗ってもらう中で、松田が自身の監督作「ア・ホーマンス」に出ないかと持ち掛けてくれたのだという。
「これはバンドを売るチャンスだ」
オファーを受け、石橋の頭をよぎったのはこんな考えだった。それを包み隠しもせず、「バンドを茶の間に売る宣伝でいいですか」。殴られる覚悟すらしながらも、ストレートに松田にこう尋ねたという。
「それでいいよ」
4秒ほどの間があって、松田からこんな答えが返ってきて、出演が決まった。
映画の現場では、それまで歌ってきた中で培ってきたフィーリングや感性が「間違っていなかった」と実感できたという。
だからこそ、撮影終了後、松田から「お前、これからどうするんだ」と尋ねられた際、「(悩みも吹っ切れて)また歌えるようになりました。もう一回バンドを立て直して、頑張ります」と答えた。
一方で役者稼業については「もし自分にできるようなものがあれば、やるかもしれません」という程度の答えだった。
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