突然の悲報がフィリピン・マニラから…49歳でこの世を去ったジャンボ鶴田の生き方

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肝臓疾患との闘い

 コーナーポスト上段で右手を挙げる「ウオーッ!」という雄たけび。「♪甲斐の山々 陽に映えて われ出陣に うれいなし」の武田節をこよなく愛した。だが、92年7月4日、横須賀大会で開幕の「サマーアクション・シリーズ」を足首負傷を理由に欠場した。

 実はジャンボの体はウイルス性肝炎に冒されていた。入院したが、完治せぬままリングに復帰。メーンの試合からは外れた。

 そして2000年5月16日、突然の悲報がマニラから飛び込んだ。同17日、朝日新聞の朝刊社会面はこのように伝えている。

《【マニラ支局16日】元プロレスラーのジャンボ鶴田(ジャンボ・つるた、本名鶴田友美=つるた・ともみ)氏が現地時間の十三日死去したのは、マニラ市郊外の病院で肝臓移植をした際、大量に出血したためであることが関係者の話で分かった。遺体は十七日、日本へ戻るという。葬儀・告別式の日程は未定。

 関係者によると、鶴田氏は重い肝臓病で今年一月に病院に入院。オーストラリアに渡り、肝臓移植に備えていた。鶴田氏が手術を受けたフィリピン国立腎臓研究所のオーナ博士によると、オーストラリアで提供者が見つからず、五月二日にフィリピンに来ていた。銃で首を撃たれた二十歳の男性が十二日に脳死状態となったため、十三日午前零時から手術が始まった。終了前の同日午後四時ごろになって、出血が止まらなくなったという。》

 ジャンボは一時、日本の病院に入院していたが、移植手術を受けられる可能性が高いオーストラリアに一家5人で移り住んだ。家族の話では、フィリピンでドナーが見つかったため、ジャンボは奥さんと子供を残し、マニラ入りして手術を受けたという。成功の確率はどのくらいだったのだろうか。ジャンボはそれもまた自分の運命と受け止め、手術に臨んだに違いない。

 フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」が好きだった。万感を込めた旅立ちを予感させる名曲である。まさにジャンボの生き方にふさわしい。絶頂期だったころ、新日本プロレスへの勧誘があったという。テレビ朝日が仲介しての交渉だったというが、ジャンボの考えは揺れなかった。生涯、全日本プロレスを貫き通した。病に倒れなかったら、国際的な視野を持って日本のプロレス界を牽引していたに違いない。

「どぶに落ちても根のある奴は、いつかは蓮の花と咲く」とフーテンの寅さんは歌ったが、まさに前向きに倒れ生きた人だった。2000年6月9、日本武道館で「カーン、カーン……」と追悼のゴングが鳴った。照明が消された館内。巨大なジャンボの遺影がスポットライトに浮かび上がった。

 次回は寅さん映画の初代マドンナを務めた光本幸子さん(1943~2013)。気品にあふれ、和服が似合う優雅な女性。おちゃめで陽気なお嬢さんでもあった。寅さんが恋した「マドンナ」の原型をつくったといわれる光本さんの素顔に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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