突然の悲報がフィリピン・マニラから…49歳でこの世を去ったジャンボ鶴田の生き方
ブドウ農家で鍛えた基礎体力
ジャンボは日本のプロレス史上最強とも言われるレスラーだった。山梨県の県立日川高校時代はバスケットボールの選手として鳴らし、中央大学入学後は、「五輪出場に一番近いと思った」というレスリングに転向。
1972年のミュンヘン五輪ではグレコローマン100キロ以上級に出場し、あっけなく予選で敗退。図抜けた運動能力ではあったが、世界の壁の厚さを痛感した。この年、旗揚げされた全日本プロレスに馬場さんの門下生として入門する。記者会見で「全日本プロレスに就職します」とさわやかな笑顔で答え、米国で修行を積みスター街道を駆け上がった。
私は77年8月25日、東京の田園コロシアムで行われたジャンボ鶴田vsミル・マスカラス(81)によるUN(ユナイテッド・ナショナル)ヘビー級選手権試合(60分3本勝負)をこの目で見た。マスカラスがレッグ・フルネルソンの奇襲で先制フォールを奪ったかと思えば、2本目はジャンボも負けじとミサイル・キックで1本返すという手に汗握る試合展開だった。最後の3本目は、一気に勝負を懸けたマスカラスのダイビング・ボディーアタックをジャンボが巧みにかわし、リングアウト勝ちを収めてUNヘビー級王座3度目の防衛に成功した。
ジャック・ブリスコ(1941~2010)、ハーリー・レイス(1943~2019)、スタン・ハンセン(74)……。強豪外国人レスラーとの熱戦も懐かしい。長州力(72)、天龍源一郎(74)、三沢光晴(1962~2009)ら日本の名レスラーとも王道のプロレスを繰り広げ、ファンの胸を熱くさせた。何よりも人並み外れたスタミナは「この人のエネルギーは無尽蔵だ」とレスラーたちを驚かせた。
その一方で、体格や資質に恵まれ、無理をしないでも勝ってしまう強さがあった。それがどこか、のんびりとしたファイトに見えたのかもしれない。一時期、「善戦マン」と揶揄されたこともあった。
前述した門馬さんによると、肺活量は師匠の馬場さんに劣らず8500もあったという。基礎体力は故郷の山梨県で培われたものだ。ブドウ畑が延々と続く坂道の一角。海抜500メートル強の小高い丘の途中に生家はあった。小中高と通学路はすべて坂道。足腰を徹底的に鍛えられた。
実家はブドウ農家。子どものころから農作業を手伝った。ダンベルやバーベルなどを使って筋骨隆々に鍛え上げた肉体とは違う、しなやかで柔らかな筋肉がついたといえるだろう。その点は師匠の馬場さんが実家の八百屋の手伝いでリヤカーを引いて下半身を鍛えたのと環境が似ている。
身長は196センチもあった。「もっとも動きやすい体重は?」と問われ、「そうね、118キロぐらいかな。120キロを超えるとちょっと重たい感じ」と語っていた(門馬忠雄・著「全日本プロレス超人伝説」文春新書)。相手を抱え上げて後方に投げ落とす必殺技のバックドロップは落差があり、描く弧は美しかった。
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