【袴田事件】巖さんに死刑求刑 再審開始決定で初めて泣いた姉・ひで子さんが帰宅後、巖さんに掛けた一言
巖さんに「具体的なことは言いません」
日本弁護士連合会で記者会見を行ったひで子さんは「本当に嬉しい。(死刑が確定した)1980年の最高裁の判決の時はみんなが敵に見えた。その気持ちが日弁連など多くの人の支援で薄れていきました。抗告があるかもしれませんが頑張っていきます」と力強く語った。
質疑で巖さんへの報告を訊かれると「具体的なことは言いません。『いいことがあったよ。安心しな』とだけ言います」などと話した。この日、ひで子さんは巖さんに目的を明かさず、「東京に行ってくる」とだけ言って出てきていた。
死刑執行の恐怖に耐えながらの半世紀近い拘置所生活で、巖さんには拘禁症の影響が強く残り、発言の意味が通らないことが多い。ひで子さんは、これまでの筆者の取材に「巖を表に出すことを恥ずかしいなどとは思わない。冤罪で人間がこんなことになることを世に見せるのが、せめてもの国へのリベンジですよ」と話している。
筆者が「ひで子さんはよく『国は巖が死ぬのを待ってるんですよ』と語っていましたが、今日はどんな風に受け止めていますか?」と訊くと、ちょっと聴き取りにくい様子で「すごく喜んでいますよ。今まで再審開始と思ったら棄却されたりでしたので、私も度胸が据わってきました。抗告されようが、とにかく頑張っていくつもりです」と答えた。
血痕の色味の変化を実験
再審請求を巡る裁判の経緯を改めて振り返ろう。
巖さんは14年3月に静岡地裁(村山浩昭裁判長)が再審開始を決定して釈放された。しかし、18年6月に検察の抗告で東京高裁(大島隆明裁判長)が決定を取り消す。
20年12月に最高裁(林道晴裁判長)が「高裁の取り消しの決定」を取り消し、「5点の衣類の色調変化の化学的機序の検討」という“宿題”を課して高裁に差し戻した。
この「5点の衣類」は、事件から1年2カ月経った1967年8月31日に味噌タンクから「発見」され、警察が犯行時の着衣とした。しかし、1年以上も味噌タンクの中にあったにもかかわらず、衣類に付着した血痕の色は赤かった。弁護側は、血痕が黒ずんでおらず、発見直前に放り込まれた可能性があること、前年の8月に既に逮捕されていた巖さんにはそれができないことから、捜査側の捏造と主張していた。
今回の高裁の「大善決定」を要約すると、5点の衣類について下記のように認めた。
(1)犯行時の着衣の血痕の色調変化に関する弁護側の実験や鑑定書は信用できる
(2)弁護側の衣類の味噌漬け実験の結果は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」に該当し、袴田巖元被告を犯人とした確定判決に合理的な疑いが生じる
(3)犯行時の着衣は捜査機関が事実上、捏造した可能性が極めて高い
(4)再審開始として死刑と拘置の執行を停止した静岡地裁決定を支持する
巖さんを40年以上支援する「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」(楳田民夫代表)の山崎俊樹事務局長(69)が血痕の色の変化を確かめるために20年かけて実施してきた「味噌漬け実験」が司法の場で評価されたのだ。これだけ重要な裁判で一市民の実験を裁判所が評価するのは聞いたことがない。
山崎事務局長は「素人の実験を認めてくださりありがたい。味噌に漬けた血痕がどうなるかという研究などをした専門家はいないので、私たちの実験が唯一無二だったからでしょう」と謙遜気味に話していた。
検察側も味噌漬け実験を行っていたが、結果を記録する際には白熱灯で照らして撮影したため血痕はあまり黒ずんでおらず、赤みが残っているように見えた。しかし、大善裁判長が静岡地検に行き、検察実験の結果を直接確かめたことで、写真の色味の不自然さが明らかになった。
間光洋弁護士は「裁判官が直接見てくれなかったら検察写真でごまかされたかもしれない」と振り返る。書面審理、法廷審理に追われる中、自ら行動を起こしてくれる裁判官は稀有なのだ。
小川弁護士は「今回は裁判官にとても温かみを感じました。巖さんにも直接会ってくれました。また、ひで子さんが高齢なことを理由に、浜松の村松奈緒美弁護士も保佐人、申立人として認めてくれた。こんなことは異例です」と評価していた。
とはいえ、9年前の村山裁判官の再審開始決定と比べると、今回は最高裁の差し戻し審であり、「最高裁に抗って」決定を出すということではなかった。その意味では開始決定を出すハードルは村山決定より低かったかもしれない。
[2/4ページ]