マスコミとの関係が険悪に…「プロ野球」名将はなぜ取材を拒否したのか?
「オマエんとこはノースピークや」
同じ1990年、就任したばかりのヤクルト・野村克也監督から取材拒否されたのが日刊ゲンダイだった。
同年2月2日付の紙面で「プロ野球ワイド特集 キャンプ直前にこれだけの怪情報」と銘打ち、「だれも信用しない『元気な野村監督』 周囲は声をひそめて『病院は…』『万一の時は』」の見出しで、年末から年明け後にかけて緊急入院した野村監督が動脈瘤で予断を許せない状態と推測する記事を掲載。本文の書き出しも「葬式なんてことになったら、どうするんだろう」と衝撃的だった。
この記事が本人の逆鱗に触れてしまう。ユマキャンプ初日、当時ヤクルト番だった元運動部長・林壮行氏は「日刊ゲンダイ? オマエんとこはノースピークや」と取材を拒否され、「あっちへ行け」とばかりにあさっての方角を人差し指で示されたという(2020年2月15日付同紙)。
ユマでの野村監督は、成田からロス経由で10時間半にわたる移動にもかかわらず、連日精力的に陣頭指揮をとり、重病説など、どこ吹く風の元気さ。同紙も2月3日付の記事で、「こりゃ意外、野村監督、思いのほか元気なのである」と“紙上訂正”を行っている。
その後、西武時代に野村監督とバッテリーを組んでいた日刊ゲンダイの専属評論家・古沢憲司氏の存在もあり、徐々に関係修復。宮崎・西都の2次キャンプの際には、「気をつけて帰れ。いい原稿書けよ」と声をかけられるまでの良好な関係になったという。
前出の仰木監督とは持ち味が異なるが、取材者を惹きつける人間味の深さという点では共通している。
「オレから野球の話は出てこないからね」
まさしく“オレ流”と呼べそうな取材拒否を行ったのが、中日・落合博満監督である。
2009年、中日はオールスターを挟んで9連勝を記録するなど、首位・巨人に2.5ゲーム差まで追い上げたが、8月25日からの天王山対決で3連敗。さらに9月1日から広島に3連敗し、V戦線から後退した。
そして、落合監督も9月3日、広島に1対8と大敗した試合後、「何の説明もコメントも要らないゲームというのは、こういうゲームだ」と評したのを最後に報道陣に対して無言を貫きはじめる。
その理由は、「オレはマスコミを使って選手にメッセージを送ることをやめにしたんだ。直接選手に話すことにした。選手は新聞を見てないんだ。だから、当分オレから野球の話は出てこないからね」というものだった、
その後も、「チームの(内部の)ことは言えません。中のことは聞くな」と野球の話を封印しつづけたが、9月21日から巨人に3連敗し、原辰徳監督の胴上げを目の当たりにすると、「最初の目標(リーグ優勝)を取れなかった。それだけ。これからが本当の戦いだ。(シーズン終了まで)あと9試合?そうは考えない。3週間だ」とクライマックス・シリーズ(CS)での雪辱を期した。
CSではファイナルステージで巨人に敗れたが、野球の話限定の取材拒否は、チームを再び上昇気流に乗せるための“オレ流”の選手操縦法のひとつとみることもできる。
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