日本軍なら絶対に将軍になれない「傲慢な問題児」が、インパール作戦で英軍を勝利に導いた理由

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 軍事史に詳しい大木毅さんの新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)は、日米英12人の指揮官たちの決断の背後に潜む「組織文化」や「軍人教育」に着目した、ユニークな評伝だ。

 同書の中でひときわ異彩を放つのが、ビルマ(現ミャンマー)における「インパール作戦」の中で、相対する英陸軍指揮官として特殊部隊を大胆に活用。日本軍をさんざんに悩ませたオード・C・ウィンゲート少将だ。彼の軍人としてのキャリアを追えば、英軍の人材登用システムが、日本のそれと大きく異なっていたことが明らかになる(『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第11章をもとに再構成)。

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 英陸軍大佐の子として生まれたウィンゲートは、当然のように軍人への道を進み、王立陸軍士官学校に入学する。しかし当時から、上級生に対して平然と「殴れるものなら殴ってみろ」と言い放ち、反骨心とトラブルメーカーの片鱗を示す。また、自転車でヨーロッパからエジプト、スーダンに至る大旅行を敢行し、そのまま当地の防衛隊に出向勤務となるなど、とにかく行動が型破りだった。スーダンでは密猟者、密貿易の取り締まりに当たり、後につながるゲリラ的な戦法を研究したとされる一方、司令部の将校たちとはあつれきが絶えなかったとも。

 本国帰国後に陸軍大学校を受験するが、学科試験には合格しても入学許可が下りない。しかし、そのまま黙っているようなウィンゲートではない。演習の際に接した参謀総長シリル・デヴェレル元帥に直訴。その行動に感銘を受けた元帥により、委任統治領パレスティナ駐屯軍の情報参謀に抜てきされたのだ。パレスティナでは、ユダヤ人の建国運動であるシオニズムに傾倒。イギリス軍とユダヤ人によるコマンド部隊を組織してアラブ人ゲリラと戦い、現在も激しい戦闘の続くこの土地に、その名を刻むこととなる。

 次に着任したエチオピアでも、対イタリア特殊部隊を編成して成果を上げるが、やはり上官と衝突して任を解かれ階級も降格、マラリアにかかったりうつ病になって自殺を図ったりと、さんざんな目に遭う。しかし、ここでまたもや救いの手が差し伸べられる。今度はかのウィンストン・チャーチル首相だ。東アフリカ戦役の報告書を読んだチャーチルは、ウィンゲートをビルマに派遣。攻勢を強める日本軍に対するゲリラ部隊を組織するよう命じた。後に勇名をはせるジャングル挺進部隊「チンディッツ」だ。
 
 実のところ、ウィンゲートのゲリラ作戦は、補給困難によって多数の死傷者を出して撤退するなど、成功したとは言いがたい。しかし日本軍に「このままではビルマは守り切れない」という強い印象を与えたことが、後の無謀なインパール侵攻につながったと指摘されている。彼がパレスティナやアフリカで練り上げたゲリラ作戦は、最終的にインパールで日本軍を打ち負かしたことになる。しかしその成果を見届けることなく、1944年3月、戦況視察中の航空機事故で墜死する。

 ウィンゲートのように型破りな指揮官は、日本軍にはもちろんのこと、米英軍にも少ないにちがいない。しかし、そのような人材が活躍の場を与えられた背景について、大木氏はこのように分析する。

「こうして検討してきたように、オード・ウィンゲートは、その優れた才幹ゆえに、他国の軍隊であれば冷や飯食いで終わったであろう軍歴を、裏門を開いておく軍隊文化によって救われ、力を振るうことができたといえよう。したがって、ウィンゲートという歴史的個性の評価もさることながら、彼の活躍の場をつくったイギリスの軍隊文化こそ、より魅力的な分析対象であると筆者には思われる」

 通常のコースを外れた人材を、いかにすくい上げて活用するか。現代日本にも通じる、重要な課題ではなかろうか。

※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)に基づいて作成したものです。

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