死刑囚だった袴田巖さんを釈放… 異例の決定をした元裁判長が明かす「有罪を見直せない裁判官の心理」

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「見立て」に整合させる裁判官

 村山氏の話からは、裁判官の発想がよく分かった。5点の衣類でひとたび有罪の確信を持ってしまえば、犯行を否定する証拠が出ても、裁判官は一から吟味し直すことにならない。ズボンが履けなくても「おかしい、真犯人ではないのでは」と考えるのではなく、それどころか認知バイアスの影響を受け、有罪と整合性を持たせる理屈づくりに励んでしまうかもしれないのだ。

 大阪地検特捜部長だった大坪弘道弁護士はかつて筆者に、特捜検察の捜査について「見立てというものが絶対に必要。それがない捜査など捜査ではない」と話した。こうした「見立て捜査」が2010年に大阪地裁で無罪判決が出た郵便不正事件で厚労省の村木厚子さんの冤罪を作った一因だったが、実は裁判官も同じように一つの「見立て」で決めてかかってしまったようだ。それが無実の巖さんが死刑囚として半世紀も獄に捕らわれる悲劇を産んだ。

 村山氏はこの日、第1次再審請求審の特別抗告を棄却した2008年の最高裁決定について「頭のいい人たちがお書きになったんだなと感じた」と語った。この言葉に筆者は「真実でないと知りながら、頭がいいからもっともらしく嘘を作文できた」という皮肉なのかとも思った。しかし、後日、本人に確認すると、「そうした意味は全くなく、あれほどきちっと論理的に整理できる人たちですら、バイアスがかかってしまうことの恐ろしさを言いたかった」とのことだった。

 第2次請求審では奈良女子大学名誉教授(発達心理学・法心理学)の浜田寿美男氏が巖さんの供述を詳細に分析して「真犯人ならあり得ない供述」とした鑑定を出したが、裁判官には一顧だにされなかった。浜田氏は「法律家は心理学者など馬鹿にしているんですよ」と筆者にこぼしていたが、村山氏のような謙虚な裁判官だったら違ったはずだ。

 秀才ぞろいの彼らが陥る「認知の誤り」について、村山氏の話は興味が尽きない。村山氏が東京大学に入学した1975年は、日本の刑事裁判史上、画期的な年だった。白鳥事件(北海道警の白鳥一雄警部が射殺された事件)の最高裁決定で「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則が再審にも適用されることになったのだ。それが免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件の「4大死刑囚の再審無罪」につながる。

 だが、当時、控訴審の最中だった巖さんは、いまだ恩恵にあずかっていない。

猫に小判

 この日の「わかる会」では、最後に浜松市で巖さんの身の回りの世話をする「見守り隊」隊長の猪野待子さんが「袴田家物語」で写真を見せながら近況を紹介した。それによると、今年になって袴田家では2匹の猫を飼い出したという。「殿」(雄・6歳・白黒)と「ルビー」(雌・7歳・茶色)である。猪野さんら支援者が一緒に世話をしている。

 巌さんもひで子さんも2匹をとても可愛がり、巖さんは餌を買ってきてやったりするのだとか。なんと巖さんは「おいしい物を買ってもらいなさい」と言いながら、猫に千円札や一万円札まであげてしまうそうだ。ある時など、猫が1万7000円ほど持っていて、その都度、ひでこさんが回収する「いたちごっこ」が続いていたという。

 そういえば、巌さんは浜松市内のパトロール(有体に言えば散歩)でも、千円札や五百円玉を花壇に置いたりすることがあった。動植物や昆虫(例えば独房での蜘蛛)にまで心優しい巖さんならではの風変わりな行動だが、別の動機も想起してしまう。

 巖さんは逮捕されて幼い子供と生き別れ、我が子にお小遣いをあげるような父親らしいことができなかった。ひょっとして、それを今、しているつもりなのではなかろうか。そんなことを想像すると冒頭の白井さんのように涙腺が緩むのでここで置く。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部

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