死刑囚だった袴田巖さんを釈放… 異例の決定をした元裁判長が明かす「有罪を見直せない裁判官の心理」
2014年当時、静岡地方裁判所の裁判長だった村山浩昭弁護士(67)は、死刑囚だった袴田巖さん(88)の再審開始とともに「拘置停止」という前例のない決定を下した。それから10年が経ち、村山氏が初めて浜松市を訪れて講演した。同市に暮らす巖さん、姉のひで子さん(91)にとって「世界一の恩人」が語った「袴田事件」。裁判官たちはなぜ巖さんを「死の淵」に追いやったのか。1966年6月30日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌会社の専務一家4人が惨殺され、犯人として死刑判決を下された巖さんとひで子さんの戦いを描く連載「袴田事件と世界一の姉」42回目。【粟野仁雄/ジャーナリスト】
【写真】昨年3月、検察の抗告断念が決まり喜ぶ袴田巖さん(87)とひで子さん(91)
釈放されたあの日のこと
4月20日、静岡県浜松市の「復興記念館」で毎月恒例の「袴田事件がわかる会」が開かれた。司会の「袴田巖さん支援クラブ」の白井孝明さん(59)は、ひで子さんの挨拶を聞いて「すみません、お話聞いていてもらい泣きしてしまって、面目ない」と目を潤ませた。
ひで子さんは「あの日」、つまり、静岡地裁が再審開始を決定し、死刑囚の弟が半世紀ぶりに解放された2014年3月27日をこう振り返った。
「会見とかが終わって午後5時ごろに東京拘置所に行きました。巖はそれまで面会拒否していたので、3年半ぶりに会えました。『再審開始だよ』って伝えたら、『そんなの嘘だ、帰ってもらってくれ』と言うんですよ」
ひで子さんにとっても巖さんの釈放は予想外のことだった。
「看守長さんに『ちょっとお待ちください』って(アクリル板越しの面会室から別の)部屋に戻されました。そしたらお金を渡すというんです。私が差し入れたお金でした。『段ボール箱11箱を送ります。着払いでいいですか?』と言われました。それでも巖がその日に釈放されるとは思わなかった。巖を連れて来るというから(再審開始のことを)説得させるためかと思った。そしたら巖が出てきて、長椅子に座って『釈放された』って言うんですから。もう、喜んで喜んで……。『巖ちゃん、よかったね、よかったね』と手を握って、それこそ大騒ぎでした」
そして、ひで子さんは「巖は胆石などの病気があった。もう半年遅かったら獄死していたかもしれません。村山先生は命の恩人です」と声を強めた。
支援者や取材者なら何度か聞いたエピソードだが、同じ話でもこの日のひで子さんの言葉にはいつもはない情感が込められていた。それもそのはず、巖さんの釈放を決めた村山氏が、講演者として会場に控えていたのだから。
意欲をもって赴任した静岡地裁
村山氏は、なぜ裁判所が巖さんの死刑を確定してしまったのかを語った。
「2012年に東京地裁から静岡地裁に赴任した際、静岡地裁といえば袴田事件と思っていました。任期の間に何とかしたいと思ってきたことは間違いないんです」と村山氏は打ち明けた。再審請求事案は在任中に着手する義務はない。日々の激務で難儀な懸案は先送りにする裁判官も多い中、村山氏は当初から意欲が違った。
「資料の文書が古くて触ると分解してしまうので、紙を挟んだり手袋をしたりと気を使いました。袴田さんが有罪とされた証拠を読むと、結局、最終的に残るのは5点の衣類でした。自白はしているが拷問まがいの調べで信用性に問題がある。それまでの(有罪)判決も自白を主体に認定したわけではありません。中核は5点の衣類です。捜査段階では初めはパジャマが犯行着衣と言っていたのですが、ご存じのようにパジャマはほとんど血がついていない。よく見てもこれが血なのかなあ、という程度です」
静岡県警は犯行時の着衣を「血だらけのパジャマ」と新聞に書かせたが、実は付着した血液は鑑定すら困難な微量だった。公判維持が難しくなることを恐れ、犯行時の着衣を急きょ5点の衣類へと変更したのだった。
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