【光る君へ】藤原道長はなぜ関白ではなく「内覧」に就任したのか
関白になれといわれても断った
第19回で道長が一条天皇に述べた、「陣定で公卿たちが意見を述べ、論じ合うことに加わりとうございます」「意見を述べる者の顔を見、声を聞き、ともに考えとうございます」という言葉は、若干、良心的な体裁をとってはいるが、道長の本音に近いはずだ。少し言い換えれば、公卿たちにいつもにらみを利かせ、彼らの生の声を聞きつつ圧力をかけたい、といっているのと変わらない。陣定をリードしながら、それを行うことができたから、道長は政権基盤を固めやすかった。
結局、道長は「内覧」という役職を気に入ったようだ。内覧就任の翌年、大臣の最高位である左大臣に任じられ、この時点で、関白に就任しても少しもおかしくなかった。前例と比較するなら、むしろ就任したほうが自然だったといえる。しかし、そのまま「内覧」にとどまった。その後も、一条天皇の次に即位した三条天皇から、関白になるように指示されながら、拒否している。
「内覧」に就任してから20年以上を経た長和5年(1016)正月、三条天皇が譲位し、道長の長女の彰子が産んだ敦成親王が後一条天皇として即位すると、道長はようやく摂政になった。
成人した天皇に奏上する文書に事前に目をとおし、アドバイスをする関白にくらべると、幼い天皇の代わりに政務を執り行う摂政は、はるかに権限が強かった。だから、道長は摂政には就任した。しかし、権威は高くても関白にはならなかった。関白よりも「内覧」のほうが、事実上、大きな権力を手にすることができた。そうであるなら、そちらを選ぶのが道長だった。
藤原道長といえば「摂関政治」の代名詞であり、道長が書き残した日記は『御堂関白記』と呼ばれる。それなのに道長は生涯、関白になることはなかった。それは、道長が実をとる人物であったからであり、だからこそ、長期政権を樹立できたといえるだろう。
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