【光る君へ】藤原道長はなぜ関白ではなく「内覧」に就任したのか
公卿の会議を仕切れる内覧
ここで、道長が語った「陣定」という語について説明する必要があるだろう。これは平安時代、なかでも摂関政治の時代に、大臣以下の公卿が行った国政会議のことを指す。この会議をリードするのは太政官の首班、つまり大臣の筆頭である「一上」だが、関白に就任すると「一上」を兼務することはできなかった。道長が「関白は陣定に出ることはできませぬ」と返答した背景には、そういう事情があった。
さて、一条天皇と道長の対話に戻る。一条天皇が「関白もあとで報告を聞くが」と尋ね返すと、道長は次のように答えた。「あとで聞くのではなく、意見を述べる者の顔を見、声を聞き、ともに考えとうございます。彼らの思い、彼らの思惑を感じ取り、見抜くことができねば、お上の補佐役は務まりませぬ」。
この「内覧」、道隆が病気のあいだ、一時的に伊周が務めたことがあったが、それは最初から、道隆が病気のあいだにかぎるとされていた。「内覧」という役職が臨時ではなく置かれるのは、23年ぶりのことだった。
道長が関白ではなく「内覧」になったのは、官職が権大納言で、大臣にもなっていなかったためだと思われる。関白にならなかったのではなく、なれなかったのである。しかし、内覧なのに、内大臣の伊周より下位の権大納言のままでは都合が悪く、陣定を仕切るにも不都合がある。そこで6月19日、道長は右大臣に任じられ、太政官の「一上」になった。
おそらく道長にとって、右大臣で内覧という立場が、それが自分で選んだものであったにせよ、一条天皇の意志でそうなったものであったにせよ、理想的だったと思われる。『光る君へ』での「(関白に)なりたくございません」という返答は、案外、史実に近いのではないだろうか。
この時点では、道隆の息子である伊周と、弟の隆家は、道長への敵意をむき出しにし、露骨に楯突いていた。仮に道長が関白になったとしても、まだ政権基盤がしっかり固まる前に、伊周や隆家が「陣定」を操って道長に抵抗したら、道長の政権が揺らぐことがないともいえない。だから、道長にとっては「陣定」に目を光らせておく必要があった。
道長は「内覧」になったおかげで、文書を読んで天皇にアドバイスしながら、陣定をリードして公卿たちを統括することができた。ネームバリューは関白より低いが、現実には、関白以上に大きな権力を手にすることができ、ライバルを押さえることもできた。道長にとっては、まことに好都合だったというほかない。
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