ドリカム35周年ツアーに出演決定… 神保彰が語る“僕のドラム人生”「奏法自体は若い頃と全く変わってきている」
「カシオペア」への道
1970年代後半に差し掛かっていた当時は、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンなど、ハードロック全盛時で、同級生らはそちらに心を奪われていたが、「僕は、当時『クロスオーバー』と呼ばれていたフュージョンに、その頃から興味がありました」と振り返る。
フュージョンにいっそう関心が深まった高3時。クラスで斜め後ろに座っていた同級生に声を掛けられる。
「ドラムやってんの?」
強面でアウトローな感じがする同級生で、近くに座っていたにも関わらず、それまでは全く接点がなかった。「僕はどちらかというとひょろっとしたがり勉タイプだったので」と笑う神保だが、この同級生はサックスを吹き、大学生らとフュージョンバンドを組んでいて、ドラマーを探していたのだという。
紹介されたバンドには、後にフュージョンバンド『PYRAMID』で組むギタリストの鳥山雄司もいた。それまで一人でドラムを演奏していた神保にとって、通っていた慶応高校のある日吉近辺の練習スタジオを、1~2カ月に1度程度借りて行うセッションはことのほか楽しく、「練習日が待ち遠しかった」という。
慶応大学への進学後は、名門のビッグバンドジャズのクラブ「ライト・ミュージック・ソサイエティ」に入部したが、そこに待ち受けていたのは体育会系的な上下関係だった。
「当初は、新入生で部を乗っ取ってやろう、という意気込みを持っていたんですが、上級生は絶対の存在。1年生の間は楽器運びや写譜などの雑用がメインで、ネズミのようにこき使われていましたね」
学年が上がると、フュージョン作品をビッグバンド風にアレンジし、演奏するように。そんな中、1979年4月に渋谷の109がオープンを迎える。オープニングイベントで歩行者天国での演奏をすることが決まった。ところが出演予定だった4年生のベーシストが、イベントと就職面接が重なってしまったため、イベントに出られなくなってしまった。
3年生のトランぺッターが「同じゼミにベースをやってるのがいるから、(エキス)トラで(出演するよう)頼んでみる」と連れてきたのが、当時すでに「カシオペア」での活動をしていた櫻井哲夫だった。
櫻井の代打演奏で無事にイベントを終えた後、神保は櫻井にこう告げられた。
「楽しかったね~。また一緒にやろうよ」
「楽しかったね」はともかく、後半の言葉は「社交辞令と思っていた」という神保だが、翌週、「ちょっとうちに遊びに来ない?」と櫻井が連絡してきた。
慶応志木高出身の櫻井が当時住んでいた埼玉県志木市まで赴くと、後からやってきたのがカシオペアのリーダー、野呂一生。すでに発売されていたカシオペアのアルバム2作品を聞かされた。
「まさに自分がやりたいようなフュージョン。いい音楽だな」と聴き入っている神保に、野呂が一言。
「どう? カシオペアでやってみない?」
ビッグバンドも好きだが、カシオペアの音楽の魅力には抗いがたく、その場で「やってみます」と返答。当時の気持ちを「プロになる意識というよりも、大学のサークルよりカシオペアの方が面白そうだな、と感じたので」と明かす。
憧れのドラマーと
大学3年までで卒業に必要な単位を取り終えていた神保は、4年生時の1年間のほとんどを、レコーディング、ライブ…と続くカシオペアの活動に費やした。
秋には米ロサンゼルスでのレコーディングが決まる。4年からの就職活動の時期をカシオペアのドラマーとして過ごし、秋のロス行きが決まった時点で「就職は諦めてカシオペアに集中しよう」と決めたという。
ロスのレコーディングのプロデューサーはハーヴィー・メイソン。ガッドと並んで神保が尊敬してやまない名ドラマーだ。
「ガッドは縦の線がビシッと合うような正確無比なドラムが持ち味。対してメイソンには黒人特有のグルーヴ感があり、彼のリードアルバムはもちろん、参加作品のディスコグラフィーを完璧に揃えていたほど。かじりつくように聴いていたし、まずはアルバムを持っていってサインをもらうところから始めた」と笑って振り返る。
メイソンがまずカシオペアに指示したのは「お前ら、とにかく何もやるな」という点だった。
「当時のメンバーはみなまだ20代前半。血気盛んで、隙間があれば全部埋めちゃうようなスタイルでやっていた」というが、メイソンの指示でリズムに集中した結果、「ガチャガチャしていたサウンドが、シンプルで骨太なものになった」という。
こうして出来上がったアルバムが81年4月発売の『EYES OF THE MIND』。それまでスリル・スピード・テクニックを売りにしていたカシオペアだけに、発売からしばらくは「これはカシオペアじゃない」「いや新しくて気持ちいいサウンドだ」などとファンの間でも賛否両論が巻き起こっていた。
「ところがアルバムの翌年のツアーから、ライブでお客さんが立って踊るようになったんです」
メイソンが求めたグルーヴ感が聴衆の体を動かすようにいざなったのだ。
「テクニックだけを追い求めると表層的なサウンドにもなりかねない。ハーヴィーが求めていたのはグルーヴ感によって、深みや奥行きのあるサウンドだったのだと、後になって理解しましたね」
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