母親の介護で芸能界を引退、父親の墓前で自らの命を…清水由貴子さんの人生は苦難の連続だった

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「何か強く惹かれるものが」

 ところで、清水さんの芸能界への出発点となったオーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ)の決勝大会を振り返ってみよう。

 1976年2月18日のあのとき、イルカの「なごり雪」を歌って、見事、16代目チャンピオンに輝いた清水さん。14社からスカウトのプラカードが上がった。同じ大会に出ていた静岡出身の根本美鶴代さん(66)と増田恵子さん(66)の2人組(のちのピンク・レディー。このときスカウトの意思を示したのはわずか1社)に大差をつけての栄冠だった。のちのちのことを考えると、あのピンク・レディーに勝つとは、まさに衝撃的な出来事だった。

 素朴で親しみやすい笑顔。庶民的なキャラクター。しかも、明るく振る舞えば振る舞うほどいじらしさや健気さが感じられる少女が清水さんだった。ジーパンをはき、背中を丸めながらギターをつま弾く姿は、哀愁さえ漂わせていた。

 審査員のひとり、作詞家・阿久悠さん(1937~2007)は、今までのアイドルにはない限りない可能性を見出していたに違いない。清水さんの第一印象を阿久さんは「美少女という印象でもないし、スターの卵というしたたかな雰囲気でもないのだが、何か強く惹かれるものがあった」と著書「夢を食った男たち」(毎日新聞社)に書いている。

 ちなみに、デビュー曲「お元気ですか」の作詞を手がけたのは阿久さんである。

 その「スター誕生!」での出来事を清水さんは「徹子の部屋」で振り返り、ピンク・レディーのことを「ピンク・レディーちゃん」と表していた。清水さんなりの思いやりのある愛情表現だったのだろう。そんなところにも誠実で真面目な清水さんの人柄がうかがえる。だが、華々しく芸能界入りしたものの、「お元気ですか」のあとヒット曲には恵まれなかった。

「このまま駄目になってしまうのだろうか」と深刻に悩んでいたとき、占い師の「新宿の母」に占ってもらったそうである。1980年、年の瀬の12月27日。一般人と同じく1時間並んでみてもらったところ、「来年から仕事運が向いてくる」と言われた。たしかに、翌81年、テレビの時代劇に初出演し、役者として新しい境地を開く。主演の杉良太郎さん(79)から役者としての心構えや芝居のイロハを厳しく指導されたというのである。

 82年にはバラエティ番組「欽ちゃんの週刊欽曜日」(TBS)のレギュラーに抜擢。「欽ちゃんバンド」のコーナーではエレクトリックピアノを担当し、多彩な才能を見せた。

 萩本さんは朝の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS系)で、清水さんが亡くなる前年の08年10月ごろに手紙が届いたことを明かしたうえで、

「手紙の最後に『これからも頑張るからね』と明るいことが書いてあったのに残念。おそらくいい子(でいるの)にくたびれた、そんな気がするね。最後はちょっと悪い子だったな」

 と悲痛な表情で語っていた。

 たしかに、いくら有名人であっても、最後は引退した一般人の身。一度折れた心は、やはり元に戻らないのだろうか。しかも清水さんは、父の墓と車椅子の母という「両親」の前で死を選んでしまった。「お元気ですか、幸せですか……」。デビュー曲の歌詞を澄んだ声があまりにも切なく、悲しい。

 次回は、195センチ、110キロの体格を生かし、数々の名勝負を繰り広げたプロレスラー・ジャンボ鶴田さん(1951~2000)。ジャイアント馬場さん(1938~1999)が社長を務めた全日本プロレスに入団し、「歴代最強レスラー」の呼び声も高かった鶴田さんの49歳という短い生涯をたどる。

■相談窓口

・日本いのちの電話連盟
電話 0570・783・556(午前10時~午後10時)
https://www.inochinodenwa.org/

・よりそいホットライン(一般社団法人 社会的包摂サポートセンター)
電話 0120-279-338(24時間対応。岩手県・宮城県・福島県からは末尾が226)
https://www.since2011.net/yorisoi/

・厚生労働省「こころの健康相談統一ダイヤル」やSNS相談
電話0570・064・556(対応時間は自治体により異なる)
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/soudan_info.html

・いのち支える相談窓口一覧(都道府県・政令指定都市別の相談窓口一覧)
https://jscp.or.jp/soudan/index.html

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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