日本屈指の名宰相・高橋是清が、若き日に遭遇した「ペルー鉱山詐欺事件」とは?
日本銀行総裁や総理大臣を歴任した大政治家・高橋是清(1853~1936)。しかし、若い頃はうさんくさい儲け話に引っかかって、大損することが何度もあった。中でも、一番スケールが大きかったのが、ペルーに有望な鉱山があるという情報にだまされて、わざわざペルーにまで赴いた大チョンボ、是清35歳での出来事である。
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作家で金融史のエキスパート・板谷敏彦さんの新刊『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯(上)』(新潮社)では、その顛末が詳しく描かれている。同書から彼がペルーに行ったときのことを再編集してお届けしよう。
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持ち込まれたペルーの投資案件
農商務省の前田正名(まさな)が是清にとある話を持ち込んだ。
「高橋君。君は欧米出張から帰ってきた時に、日本人は欧米先進国ではなかなか本格的な事業を始められないから、海外進出をするのならば、むしろスペイン語圏の中南米など、開発の遅れた地域に出るべきだと話していたね」
「その通りだ。日本人は、欧米では言葉ができないし、連中は日本人に対して傲慢だからなかなか相手にしてもらえない」
「そこでだ。実はペルーでの投資案件が持ち上がってだね。今出資者を募集しているところだ。どうかね一口乗らないかね?」
前田の説明はこうだった。
大変な親日家で資産家のオスカル・ヘーレンというドイツ人がいて、日本が開国間もない頃に築地の外国人居留地に住んでいたことがあった。
ヘーレンはペルーの大統領や資産家と姻戚関係にあったので、日本を離れた後はペルーに住み着いて事業を興した。そうした中で大統領が推し進める殖産興業の一助として今回の事業を始めることになったが、彼は鉱山に偏重したペルーの産業構造を改めるためにも、是非農業を盛んにしたいと考えた。
そこで思いついたのが農園経営に日本からの投資を仰ぐと共に勤勉な日本人を農夫として使うことだった。
高品位の銀鉱
明治21年3月ごろ、ヘーレンは築地にいた頃からの使用人である井上賢吉を日本へ派遣した。出資者と農夫の募集のためである。その際ペルーの産業の紹介ぐらいのつもりでカラワクラ銀山の銀鉱石サンプルを持たせた。
元山梨県知事で殖産興業に熱心だった藤村紫朗は農業開発よりもむしろ井上が持っている銀鉱石のサンプルに興味を持った。そこで当時の権威である東京大学の巌谷立太郎(いわやりゅうたろう)教授に鑑定を依頼するとサンプルは高品位の銀鉱石であることが判明したのだ。
がぜん鉱山に興味を持った藤村は、三浦梧楼(ごろう〈長州・軍人〉)など有力者6人ほどに声をかけて5万円を集めて組合を作り農業よりも銀鉱山経営の可能性を探ることになった。
果たして彼らは、明治21年末に巌谷教授の弟子である田島晴雄技師(大学予備門では是清の生徒)をペルーの現地に派遣し、鉱山の実地調査を行わせたところやはり有望な鉱山だと報告があったのだ。
そこで藤村たちは田島が現地から提案するままに、ヘーレンとの間で100万円を折半出資して鉱山開発のための「有限責任日本興業会社」をペルーに作ることに合意した。日本にはそこに出資するための「日秘鉱業会社」を設立して、50万円ほどの資本金を集めようというのだった。
「高橋君、どうかね。藤村君たちがここまでやったのはとても立派なことじゃないか。君も助けるつもりで株主になりたまえ」
「鉱山の専門の学者のお墨付きがあるのなら、もう考える余地もないではないか。私が手元で出資できるのはせいぜい1万円だけだが、ここは是非一口乗らせてもらおう」
是清は1万円の出資を決め、藤村と前田はその後も要所をかけまわり、結局24人の株主から50万円の資本金の予約を取ることができた。明治22年9月のことである。
いざアンデスへ
明治22(1889)年10月4日、ペルーの銀山開発に向けて、日本側の鉱山投資会社である日秘鉱業会社が設立された。ここから現地の鉱山会社に出資する。
甲州財閥で高名な小野金六、藤村紫朗以下10名の発起人たちが25万円の出資に名乗りをあげ、これに前田正名、高橋是清以下14名の株主が加わり25万円を出資、計50万円を準備した。最初にすべてを出すのではなく事業の進展に沿って資本金を払い込んでいく。
是清は当初1万円分の株の購入を前田に約したが、本人がペルーへ行き陣頭指揮をとることになったので、前田の勧めもあって5万円に増額することにした。これで是清は10%保有の大株主である。うまくいけば大もうけ、失敗すれば被害甚大となる。
大隈重信外相が条約改正問題の不満分子から爆裂弾の襲撃を受けて右足を失う事件の後の騒動の中で、是清は11月1日にいよいよ農商務省を非職になった。
「ペルー国へおよそ2カ年の見込みをもって遊歴の儀認可」、私用ながら農商務省の息がかかっている。一部公務の扱いだった。非職には給料の3分の1が支給される。
11月16日、是清は大塚窪町の自宅から息子是賢(これかた)、是福(これよし)と共に馬車に乗り込み新橋駅へと向かった。
是清は新橋駅での見送りは「無慮(ざっと)千余人」と日記に記した。
農商務省に東京農林学校、共立(きょうりゅう)学校の生徒OBたちで駅周辺は埋まった。この内70余人が汽車に乗りさらに横浜港まで見送った。なんとも強烈な人気ぶりで、是清に対する周囲の期待も大きかったのである。
サンフランシスコ経由でペルーへ
是清は、ペルーの銀鉱山を実地で検分し、有望だと評価した田島晴雄技師と新たな雇員の屋須(やす)弘平の2名を引き連れて、自身3度目となる太平洋横断航路の途についた。まずはサンフランシスコへ行き、そこから太平洋岸を南下する。
正月に赤道を越えて目的地であるペルーのカヤオ港に到着したのは翌明治23年1月7日のこと、合計で52日間の旅程である。カヤオとはペルーの首都リマの都市圏、当時も現在もペルー最大の貿易港である。
港には日本側と共同で事業をすることになるオスカル・ヘーレンが迎えに来ていた。市街のホテルに泊まろうとする是清にヘーレンはしきりと彼が用意した宿舎に泊まるように勧める。
是清は交渉せねばならぬこともあり、ヘーレンから余分な世話になることを固辞したのだが、ヘーレンは市街のホテルは不衛生だからと、是清一行の到着に合わせて宿舎を新築しておいてくれたのだ。そこまでされれば受けざるを得ない。
歓迎の晩餐(ばんさん)の後でヘーレンが言う。
「君の人となりは前田正名からの手紙などで知っていたつもりだが、正直、先ほど私の好意を強情に断った時は、少なからず失望しましたよ」
是清が返す。
「強情は強情だが、道理には屈服します。今は、安心されたのではないですか?」
「うん、うん」
こうして、是清はヘーレンとすぐに打ち解けたのである。ヘーレンは悪い奴ではなかった。
掘り尽くされていた鉱山
1月27日、是清から遅れること20日間、日本から山口慎(しずか)に率いられた坑夫たち16名がカヤオに到着した。
この後、是清一行は富士山よりも高い標高5486メートルのアンデス山脈を越えて、岩と氷河に囲まれたカラワクラ銀山へ到着。3日間ほど仕事の準備をしながら休養を取ると、25日になって坑口にペルーと日の丸の国旗を飾って神式で開山式を執り行った。
御神酒を皆で回し飲みし、その後小宴を催して、そのままの勢いで作業に入った。つるはしにノミの原始的な道具である。実働2時間で鉱石2トンを採掘。外は寒いが、意外にも坑内は暖かく、これは日本と変わらぬと坑夫たちは喜んだ。
こうして操業へのめどをつけた是清は、27日にヤウリを発ち、リマへの帰途についたのである。
ところが、カラワクラ銀山での操業が始まって数週間経った明治23(1890)年3月26日、山にいた小池という技手が山口の命を受けて山を下り是清の前に現れた。是清はあまりに突然なことなので、また坑夫たちのいさかいかと思った。
「どうした何があった?」
と聞くと、小池は声を潜めて語るのだった。
「去る21日のことですが、私が坑内をくまなく調べておりましたら、坑の奥の方はがらんどうになっていて、さらに坑道を下りよく検分すると、あの銀山はなんと底の底まで掘り尽くされておりました」
是清は、あまりに意外な内容で、小池が何を言っているのかよく理解できなかった。
小池は念を押した。
「カラワクラ銀山はおそらくここ数百年の間に掘り尽くされた廃坑です」
「ちゃんと調べたのか?」
是清が問うと、
「坑内ががらんどうであることに気がついたので、良鉱の部分は既に掘り尽くしたのではないかと、早速坑内の鉱石をいろいろな場所から採取して三日三晩昼夜兼行でその品位を分析しました」
小池が言うには、検査の結果、最上の鉱石でも銀の含有量は1000分の1ないし2しかない、東京で事業を始めようと決定した時のサンプルの品位は1000分の200ないし280ほどだったので、これでは2桁も違う。話にならない数値だった。
信じ難い最悪の現実がここにあった。是清はテーブルにおいた両手の拳を強く握ると、頬に涙がつたった。
「嗚呼(ああ)、万事止(やん)ぬるかな!」
※本記事は、板谷敏彦『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯(上)』(新潮社)の一部を再編集して作成したものです。