忘れ去られた“天才ピアノ少女”が復活できたワケは? フジコ・ヘミングの数奇な人生

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 1999年2月、フジコ・ヘミングさんは一夜にして人生が激変した。NHKの教育テレビで放送されたドキュメンタリー「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が、大反響を呼んだのだ。

 番組は東京・下北沢の古い洋館に暮らすフジコさんの日常を回想を交えて描いていた。天才少女と呼ばれ、ヨーロッパで活躍。重要な演奏会を前に風邪をひき、耳が聴こえなくなる。左耳の聴力は40%ほど回復したが、彼女の存在は忘れ去られた。それから30年余り、日本に帰国。人生を取り戻したいと願うようになった。

 自宅の猫に食事を与え、自身は雑然とした狭い台所でじゃがいも入りのみそ汁を立って食べていた。数奇な人生、飾らない人柄以上にピアノが視聴者を引き込む。ショパン「ノクターン」、ベートーヴェン「月光」、リスト「ため息」「ラ・カンパネラ」などを弾く姿を披露。時にはたばこをくわえ、もの思いにふけるかのように弾く。

NHK出演で“時の人”に

 番組が契機となり、8月、初のアルバム「奇蹟のカンパネラ」が発売。200万枚以上を売る異例の大ヒットに。

 フジコさんは翌年に本誌(「週刊新潮」)の取材に応じている。〈世の中の人がきちんと解ってくれるのかしらって、半信半疑だったの〉と急な人気に戸惑っていた。当時60代後半。ブームに終わらず、多くのファンが根付いた。

 フジコさんと親交が深く、絵本の合作や演奏会を企画した沓沢小波(くつざわさなみ)さんは言う。

「下北沢の家に伺った時、ヘミングさんが鍵のかかった棚を開けたことがありました。ものが詰まっていて、ずいぶんくたびれた紙袋が見えました。これは昔、親友がプレゼントをくれた時の袋と話してくれました。その時の気持ち、場面がここにあるからと袋のしわも当時のまま残していたのです。一見何でもない古いものにも宿る喜びや悲しみを覚えていました。苦労をなさっているのに、思い出を大切にされていた。その記憶が演奏に表れて、ヘミングさんが語りかけてくるように聴こえるのかなと思います。とても繊細でした」

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