金融恐慌でパニックを起こした預金者たちを一瞬で落ち着かせた「高橋是清の奇策」とは?

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 昭和2年4月、鈴木商店破綻に端を発した金融恐慌が発生。蔵相に起用された高橋是清は、思い切った対応策を次々と打ち出し、この未曾有の危機を乗り切ったことで知られる。

 金融史に造詣が深い板谷敏彦さんの新刊『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯(下)』(新潮社)には、その詳細が詳しく描かれている。同書から一部を再編集してお届けしよう。

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「だるまさん」こと是清は、国民大衆に人気があった。丸い風貌は親しみやすく、歯に衣(きぬ)着せぬ言動は嘘がなく、政治屋特有の利権の臭いがしない。

 信用崩壊に起因する金融恐慌では、人格的な信頼感がなければ収束させることは難しい。また政友会の是清はこれまで積極財政で知られてきた。経済・金融に関する是清の考え方は広く知られており、きっと何とかするだろうと金融関係者から見れば予見性が高かった。

 是清の蔵相就任は国内外でも歓迎された。21日付の「ウォール・ストリート・ジャーナル」は是清歓迎の記事を掲載した。また政敵である前蔵相の片岡直温さえ「次の蔵相が高橋是清さんだと聞いて愁眉(しゅうび)を開くことができた。高橋さんであれば大丈夫だと思った」と後に感想を述べている。

十五銀行の取り付け騒ぎ

 4月20日、田中義一内閣の親任式が行われた。しかしながら、この日も取り付け騒ぎは拡大し、午前中から岡山、広島、門司などから銀行休業が伝えられ、午後に入ると十五銀行が取り付けに遭遇し、午後6時半ごろには翌21日から休業せざるを得ない状況であることが伝えられた。

 東京市に本店を置く十五銀行は、資本金1億円、預金額3億6800万円、当時の大銀行の一つで宮内省本金庫を受け持つ華族様の名門銀行である。取引先は全国に及んだから、その休業が国民に与えるショックは大きく、休業によって取り付け騒ぎはさらに拡大することが予想された。

 20日の閣議が終了して是清は午後9時に帰宅した。市来乙彦日本銀行総裁、土方久徴(ひさあきら)副総裁、大蔵省の黒田英雄次官を自宅へ呼んで十五銀行の救済について意見を聞いた。是清は日銀に十五銀行に対する非常貸し出しを指示したが、午前2時になってそれでも十五銀行は3週間の休業を決定した。

「いったい何をしていたんだ?」

 21日朝、前夜のうちに土方から十五銀行休業の知らせを受けた手形交換所委員長である三井銀行の池田成彬(しげあき)は朝から銀行集会所に寄ると緊急理事会を開催して公的支援を要請することを決めた。三菱銀行の串田万蔵を伴うと日本銀行へ行き市来総裁、土方副総裁と面談した。

 この串田は若き日に是清に米国留学に連れていってもらった男である。日銀は政府補償がなければ特別融資をできないという立場だから、一緒に首相官邸へ陳情に行くことにした。

 日銀を出る直前になって、土方は池田を別室へ連れ出すと、困惑した顔でこう言った。

「君、かんじんのお札が無いんだ。貸すだけのお札が無いのだよ」

「それはとんでもないことだ。三井だけでも3000万や5000万は借りねばならない。三菱だって第一だって同じだ。何億という札束が必要になる。君らはいったい何をしていたんだ?」

 池田は怒った。日銀が貸し渋っている理由がわかったような気がした。貸すための紙幣を持っていなかったのだ。

増幅する不安心理

 昭和2(1927)年4月21日木曜日午前、是清のもとへは、十五銀行休業の号外が世間に出回って、朝早くから大都市はもちろん、地方の都市に至るまで銀行に取り付けの人々が押し寄せ、その数は各行300,500、1000人にも及んでいるとの報告が続々と入っていた。日本列島は大恐慌の様相を呈していた。

 これに対して、是清はモラトリアム(支払い猶予令)を緊急勅令で発令して、預金封鎖をすることで取り付けの沈静化を図るしかないと考えていた。銀行倒産に対する不安心理が預金の現金化を急がせているのに、取り付け騒ぎが拡大すれば、不安心理はますます増幅するばかりだからだ。

 是清は午後の閣議で、緊急勅令を出して21日間のモラトリアムを全国で実施すること、また臨時議会を召集して台湾の金融機関の救済および財界安定に関する法案に対して協賛を得ることの2案を提案し閣議の同意を得た。

 この日午後9時、東京手形交換所の臨時総会で2日間の銀行休業が決議された。池田と串田は会員に詳しい理由を話せないので、「政府は何かを計画しているから、我々は2日間休業してそれを待とう」と説明したが、銀行経営者たちにはそれで充分だった。大阪でも2日間自主休業はすんなりと賛成を得られた。

古い札や破損札まで利用

 政府は午後9時50分に、「政府は財界安定のため、徹底的救済を執ることに閣議で決定せり」とだけ発表した。モラトリアムは決まったが、22、23日が銀行による自主休業、24日が日曜日で、25日の銀行営業再開に向けての準備が残っている。

 是清は日銀に対して、今日明日はもちろん、24日の日曜日も非常貸し出しを続けること、またこれまで日銀と取引がないような銀行に対しても資金の融通をし、担保物件の評価に関して寛大な方針を採るように要請した。

 また銀行窓口再開時には預金引き出しに備えて各銀行の店頭に現金の紙幣を準備しなければならないが、十五銀行の休業が発表された21日のたった1日だけでも、日銀券の発行は6億3900万円にのぼり、発行残高合計では23億1300万円にまで達していた。
 
 これは普段であれば本来10億円の水準のはずである。日銀の金庫にしまってあった、いったんは回収された古い札や破損札までが市中に戻されるありさまで、紙幣が全く不足していた。

裏面が白紙のお札

 印刷局はフルスピードで印刷したが間に合いそうもない。日銀からは暫定用200円券の急造の申し出があり、裏面が白紙の200円券、その後50円券が印刷され各銀行へと運ばれた。後年これを是清のアイデアのように流布されることがあるが、是清は許可しただけである。

 モラトリアムが実施される以上、多くの紙幣は必要ではないが、こうした紙幣は店頭に積み上げて、銀行には十分な紙幣(資金)があることを示し、「早くしないと紙幣がなくなって下ろせなくなる」と殺到する預金者を落ち着かせる効果があった。

 24日、日曜日、日本銀行は国民に向けて声明を出した。

「銀行には極力資金融通の便宜を図るので、預金者はいたずらに不安に陥らないよう」

「はなはだ平穏」

 そしていよいよ25日の朝を迎えた。今日も取り付け騒動が起きるようでは対処の仕様がなくなる。銀行の開店時間になると是清は秘書官の上塚司に命じて市中の銀行をぐるりと巡回せしめた。この上塚は後に『高橋是清自伝』を編集することになる人物である。

「どうだった」と帰ってきた上塚に是清が聞く。

「各銀行いずれも店を開き、きれいに掃除し、カウンターの内には山のごとく紙幣を積み重ねて、どれだけでも取り付けに応ずる威勢を示しており、はなはだ平穏でございました」と上塚は答えた。それを聞いた是清は安堵した。

※本記事は、板谷敏彦『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯(下)』(新潮社)の一部を再編集して作成したものです。

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