「青葉城恋唄」は10分で完成、断りたかった「仙八先生」に出演…さとう宗幸(75)が明かすデビュー45周年“秘話”
仙台のジンクス破る
こうして発売を迎えた『青葉城恋唄』。初回生産は3,000枚程度だったが、それでも「僕にとってはうれしくて舞い上がるような数字」だったという。だが、そんな思惑は見事に覆される。仙台だけで1週間足らずで3万~4万枚のバックオーダーが届いたのだ。
「当時は3万枚売れればヒットと言われていて、そこまでは頑張って売ろうよ、とみんなで言っていたのに」
さらに拍車をかけたのが、当時のNHKの朝の情報番組『スタジオ102』だ。
「NHK仙台で生まれた曲が大きな反響を呼んでいます」という振りで、さとうはギターを抱えて歩きながら2番までを生歌唱した。
番組終了後、「全国からバックオーダーが日に万単位で届くようになった」というから、仙台が生んだ名曲は一気に全国区となった。
実はそれ以前、仙台をテーマにした演歌やムード歌謡は割と多かったものの、「仙台テーマの歌はヒットしない」というジンクスさえささやかれていた。それだけに、『青葉城恋唄』に対する地元の応援ムードも強く、NHK発ながら、民放番組もこぞってこの曲やさとうを取り上げた。
象徴的なのは当時の国鉄・仙台駅。特急の到着時にホームに『青葉城恋唄』が流れたほか、さとうが『紅白歌合戦』に出場した同年大晦日には1日中、エンドレスで曲を流し続けた。現在のような、さまざまな駅でゆかりのある曲が駅メロに採用される時代とは程遠い頃の話だ。
「自分だけの力じゃない。後ろからみんなが背中を押してくれた」
さとうはその思いを強くしたという。
同じ宮城県出身で、誕生日も1月25日と同じ、漫画家の石ノ森(当時・石森)章太郎とは、ラジオ番組で対談。「これからもみんなが歌えるような歌を作ってくださいね」と掛けられた言葉を、さとうは今も胸に抱いているという。
曲の大ヒットに、両親はことのほか喜んだ。小学2年時には腎不全で生死をさまよう大病を経験していた5人きょうだいの末っ子。
「兄姉は、まともな仕事でなく、乳飲み子がいる中で歌の世界でやっていくことに懐疑的だったけど、両親はこいつの人生は自分が納得するように送らせてやろうという親心を持っていてくれました。反対の二文字は一切なかった。売れない頃には実家に行くと、いつもおふくろが1万円を持たせてくれてね」
晩年、入院していた母を見舞うと、言葉は話せないながらも、さとうの言葉に深くうなずく姿に、母親としての喜びがあふれていた。
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