「青葉城恋唄」は10分で完成、断りたかった「仙八先生」に出演…さとう宗幸(75)が明かすデビュー45周年“秘話”
届いた「青葉城恋唄」の歌詞
コーナー開始後、1カ月も経たないうちに、星間船一さんの詞が番組に届いた。後の『青葉城恋唄』の歌詞だ。さとうは2番の歌詞に強い思いを抱き、七夕の頃の自身の思い出を振り返りながら曲を作った。
「今、思えば、米印の出るような番組を、星間さんが聴いていてくれたこともラッキーだった。最初からすごく完成度の高い詞で。ギターで曲を作るのに、10分は掛からなかった」
名曲の誕生だった。
曲の構成は、いわゆる「A-A’(エーダッシュ)-B-B’(ビーダッシュ)」でできており、「音楽に詳しい人が聴けば、あっという間に作ったんだろうなと分かる」構成だ。
ただそれが奏功したともいえる。「耳になじみやすい曲に仕上がった」といい、誰もが歌える名曲へのステップの一つとなった。
番組では、希望者にコード付きの楽譜をプレゼントすると告知。当初は1~2通だった応募が、番組で毎週歌ううちに5通、10通と増え、軌を一にして、番組観覧希望者も増加。用意された30席が埋まるようになった。
レコーディングでの偶然
こうした当時の番組でのムーブメントに、番組担当ディレクターは「ひょっとしたら…」の思いを抱き、各レコード会社に「今、仙台ではこんな曲が流行っています」と話を持ち掛けたが、触手を伸ばしてくるレコード会社はなかった。
「当時の僕はそんな話があったとも知らず。後から聞いたんですけどね」
77年夏過ぎには、仙台を訪れた人気演歌歌手の石川さゆりが同曲を熱唱。
「作った者としてはもうめちゃくちゃうれしくて」
『青葉城恋唄』をめぐるムーブメントが続いたことから、「発売する、しないは別にして、レコーディングしよう」との話がまとまり、さとうは東京でレコーディングに臨んだ。
ただ、この時にレコーディングしたのは、今、耳にする『青葉城恋唄』ではなかった。アレンジャーが異なり、さとう曰く「強いて言えば、歌謡曲っぽかった」という『青葉城恋唄』。そのまま世に出ていたら、ヒットしていたかどうか。
そんな曲の運命を変えたのは、たまたま別の歌手のレコーディングで同じスタジオを訪れていたキングレコードのディレクター、赤間剛勝さん。赤間さんは宮城県出身で、隣のスタジオから漏れ聞こえてくる「広瀬川」「青葉通り」「七夕の飾り」といった言葉に「なんだ、宮城県の歌じゃないか」と反応。さとうの音楽事務所側がデモテープだと説明すると赤間さんは「どこにも決まってないんだったら、うちでやらせてよ」。
キングレコードからのデビューがこうして決まった。78年2月のレコーディングに際し、「アレンジも変えよう」と音楽事務所が決断。名ギタリストでもある石川鷹彦の手によるアレンジは、仙台のさまざまな情景を一瞬にして想起させるようなウインドチャイムから始まる、今もなお耳に残る叙情フォークのような名編曲。このアレンジが、名曲をさらに盤石なものにしたといえる。
「当時は年間に何百人もデビューしていたような時代。ウインドチャイムから入るような楽曲はなかった。あの斬新なアレンジでなければ、曲自体が埋もれていた可能性がなくもない」
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