元死刑囚は真犯人だったのか…「飯塚事件」でスクープを連発した「西日本新聞」が“ゼロからの再検証”に挑んだ理由
揺らぐ「MCT118型のDNA鑑定」の信用性
――そうしたお気持ちに変化が生じたのはいつ頃のことですか。
傍示:「もしかして……という疑問が膨らんできたのは、やはり第一次再審請求の福岡地裁決定です。請求そのものは棄却されましたが、“MCT118型のDNA鑑定そのものにはほぼ証拠価値がない”と認定したのです。それまでDNA型鑑定こそ4本の柱のなかでも最大の柱だと思っていたので、証拠価値がないと認定されたことによって“久間の裁判は本当に正しかったんだろうか”という疑問が持ち上がったというのが一番です」
――当時のDNA型鑑定への信用性が揺らいだことが大きかったわけですね。
傍示:「加えて、弁護団共同代表の徳田靖之先生、そして日本テレビの清水潔さんの影響も大きかったです。多分宮崎も同じ思いで徳田先生のメッセージを聞いていたと思うんですが、再審を開始した時に、ここまで冤罪疑惑が膨らむ中、報道の方たちはどう思っているのか、本当に再審開始が決定した時にあなたたちは恥ずかしくないのか、と報道に対して問うたんです。この言葉は特に西日本新聞に対するメッセージだったと私は受け止めました。これがやっぱりずっと自分の中で引っかかっていたというか、メッセージを無視することはできるんですけども、どうしても無視できなかった部分があった。また、自分が編集局長になる前の2016年に、日テレの清水潔さんとお会いして親しくなったのですが、彼は独自に番組で飯塚事件を検証されていたんです。その清水さんが対話の中で“傍示さん、飯塚事件をやらないんですか”と仰るわけです。清水さんから投げられたボール、徳田先生からのメッセージ、2016年から17年にかけて、この2つが自分を突き動かす大きなきっかけとなりました」
「宮崎と私でなければ絶対にできないと思っていた」
――その一方で、当時取材にあたった宮崎さんは、今回のドキュメンタリー映画のなかで「僕は裁かれる立場だと思っていた」と語っていました。つまり、事件の再検証においてご自身は“被告”の立場であるということですが、傍示さんは宮崎さんをどう説得したのでしょうか。
傍示:「検証キャンペーンそのものは当時の報道内容を検証するだけではなく、もう一度、事実を積み上げて、我々なりに納得できるまで事件をゼロベースで検証し直そうというのが最大の目的でした。とはいえ、その中では自分たちがやってきた報道の検証は避けられない。そして、飯塚事件に関する当時のスクープは、実際のところ宮崎が全て打ってきたわけです。その意味で、私としても一番ネックになると思ったのが、“宮崎をどう説得するか”でした。そのため、自分が編集局長になることが決まった辺りから、宮崎には“実はこういうことやりたいんだ”と伝えました。宮崎は当然反対すると思ってましたが、これは宮崎と私でなければ絶対にできないキャンペーンだと思っていたので、宮崎とは時間をかけてとにかく何度も何度も話をしまして。最終的に宮崎の同意を取り付けたことで、自分としても“これはいける”という感触を掴んだ。それが編集局長になった直後ぐらいですかね」
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