プロ意識の欠如で故障、知らぬ間に金銭感覚も麻痺して…4年で戦力外通告された元阪神投手(44)が明かす、入団1年目の後悔

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打たれるのが悔しいバッティングピッチャー

 こうして、プロ4年目を迎えた。同期の井川慶はすでにチームのエースとして活躍し、1学年下の藤川球児も、期待のホープとして台頭していた。何度も故障を繰り返しているうちに、チーム内における自分の立場が危うくなっているという実感はあった。

「それまで自分が任されていた場面で、後輩選手が投げる機会が増えていきました。焦りは感じるけれども、無理はできないし、けれども、そのまま黙っているわけにもいかない。それで無理して投げるんだけど、肩が痛いからいいパフォーマンスを発揮することができない。それでさらにフラストレーションが溜まっていく。プロ4年目は、ただただ苦しかった。そんな印象しか残っていません……」

 この年のオフ、奥村は戦力外通告を受けた。プロ4年間で1軍登板はなし。球団から提示されたのは、バッティングピッチャーとしての役割だった。「他球団でプレーしたい」と思いつつ、「今の肩の状態では現役続行は難しいだろう」と判断して、打撃投手の職を務めることとした。しかし――。

「まったく予想していなかったですけど、わずか1年でバッティングピッチャーもクビになってしまいました。ただ、冷静に考えると、僕自身のパフォーマンスはすごく悪かったと思います。バッティングピッチャーというのは、バッターに気持ちよく打ってもらうのが仕事ですよね。でも、気持ちよく打たれているうちに、だんだん腹が立ってくるんです(苦笑)。現役に未練を残していたから、やっぱりバッターに打たれたくない。頭ではわかっていても、身体は厳しいコースを狙ってしまう。頭と心がバラバラで投げ方がよくわからなくなっていきました」

 元々、コントロールが持ち味だったが、甘いコースを狙って投げることは難しかった。甘いボールを投げようとすればするほど、かえって厳しいコースを突くことになり、打者のバットを何本もへし折ることになった。

「わずか1年でクビになってしまい、やっぱり現役生活に戻ることはできないのだと悟りました。当時、まだ23歳でした。1浪して大学を卒業したと考えれば、まだまだいろいろなことができる。そう考えて、友人とともに飲食業を始めることにしました。当時の自分にとって、野球以外で知っている世界が飲食しかなかったからです」

 根が真面目な奥村は、すぐに調理師学校に通い、調理師免許を取得。大阪・ミナミのレストランバーでのアルバイトに励んだ。その後は帝国ホテル大阪の調理場でも働いた。この頃、古巣タイガースは18年ぶりのセ・リーグ制覇に沸いていた。かつての仲間たちの活躍に、奥村は複雑な感情を抱いた。

「優勝に大きく貢献したのが、同期で入団した井川でした。20勝5敗という驚異的な成績でした。でも僕は素直に喜ぶことができなかった。こちらは時給900~1000円で、1日働いても7000円程度の日給でした。金額に換算すれば、井川が試合で投げる1球よりも価値が低いものだったと思います」

 そんなある日、仕事を終えて帰宅すると、机の上に一冊の本が置かれていた。心身ともに摩耗していた奥村を見かねた彼女が用意したもので、その表紙には『資格ガイド』と大書されていた――。
(文中敬称略・後編に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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