【光る君へ】親の七光りで異例の出世…三浦翔平が演じる危険人物・藤原伊周の見苦しすぎる行く末

国内 社会

  • ブックマーク

最後まで往生際が悪かった伊周

 ドラマで秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』には、伊周と隆家が道長との反目を深め、危険な行動を重ねていく様子が描かれている。7月24日には、公卿の会議の場で伊周が道長と激しい口論におよび、まるで「闘乱」のようだったという。27日には、弟の隆家の従者が道長の従者と、七条大路で弓矢による「合戦」を引き起こした。その報復措置なのだろうか、8月2日には隆家の従者が道長を警護する武官を殺害したという。

 こうして一触即発の状況が続いたまま、年が明けて長徳2年(996)になると、さらにとんでもない事態が発生した。正月14日に起きた、「長徳の変」と呼ばれるその事件について、『栄華物語』に書かれているのは次のような内容である。

 伊周は故藤原為光の三女のもとに密かに通っており、一方、花山法皇は為光の四女に言い寄っていた。ところが、伊周は花山法皇が、自分の女である三女に手を出していると勘違いした。そこで、弟と一緒に従者を連れて花山天皇を待ち伏せし、弓矢で射掛けて法皇の袖に矢を貫通させてしまった。
 
『栄花物語』の記述を、そのまま史実とは言い切ることはできない。だが、ほかの史料と突き合わせると、伊周と隆家が故藤原為光の家ですごした際、花山院およびその従者たちと乱闘騒ぎを起こし、法皇の従者2人を殺害してしまったところまでは確認できる。権力の中枢に座れなかった悔しさから危険な行動を重ねるうちに、致命的な事件を起こしてしまったということである。

 結局、兄弟には、法皇を襲撃したことに加え、女院詮子を呪詛した嫌疑や、天皇家にしか許されない法を僧に行わせた嫌疑もかけられる。そして、一条天皇は4月24日、内大臣の伊周は太宰権帥、中納言の隆家は出雲権守へと降格のうえ、即刻配流するように命じることになった。

苦労せずに出世しすぎたツケが回った

 だが、その後はさらに見苦しかった。伊周と隆家の兄弟は出頭を拒否し、中宮定子の御所に立てこもった。このため検非違使に乗り込まれ、隆家は捕らえられたが、伊周は往生際が悪いことに逃亡したのである。

 その後、いったんは出家姿で出頭した伊周だったが、太宰府に護送される途中、病気といつわって播磨(兵庫県西部)にとどまった挙げ句、ひそかに上京して、また定子のもとにかくまわれたのである。しかし、最後は見つかって、出家がうそだったことも判明し、太宰府に送られた。

 伊周と隆家の兄弟は、配流された翌年である長徳3年(997)の夏には、赦免されて都に帰ることを赦されている。一条天皇が母である詮子の病気平癒を祈って、大規模な恩赦を実行したからだった。

 その後の伊周は、寛弘2年(1005)に、内裏への昇殿を許されるまで立場を回復したものの、かつての勢いとはくらべるべくもなかった。むろん、道長の立場を脅かすような地位からは、はるかに遠いところにいた。そして寛弘7年(1010)、失意のうちに37歳でこの世を去った。一方、弟の隆家は66歳まで生きて、長久5年(1044)に没したが、大臣はもちろんのこと、大納言になることもなかった。

 父の七光りのもと、自身はなんら苦労することなく異例の出世を遂げ、さまざまな経験を積む前に、他人に要求することばかり覚えた伊周。現実社会は理不尽なことだらけだが、それへの耐性がないようでは、結局、自滅するほかない。これも藤原氏の栄華がもたらした悲劇の一端といえるだろう。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。