【光る君へ】親の七光りで異例の出世…三浦翔平が演じる危険人物・藤原伊周の見苦しすぎる行く末
父道隆の自業自得で政権のトップに就けなかった
長徳元年(995)4月10日、栄華を誇った関白藤原道隆(井浦新)が病死すると、一条天皇(塩野瑛久)は27日、弟の右大臣道兼(玉置玲央)を関白にした。しかし、その道兼もまた、公卿のあいだにも蔓延していた疫病の疱瘡(天然痘)に感染し、5月8日には死去してしまう。
【写真】第16話で描かれた、一条天皇(塩野瑛久)と中宮の定子(高畑充希)のラブシーン
NHK大河ドラマ「光る君へ」は第18回「岐路」(5月5日放送)で、この道兼の非運を描いた。ドラマのなかでは、第1回でまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の母(国仲涼子)を殺害するという衝撃的な場面を演じて以来、憎まれ役だった道兼だが、最後はよき政をめざす善人として描かれ、視聴者が受ける印象も大きく変わったようだ。
代わりに悪役を担うことになったのが、道隆の長男の伊周(三浦翔平)である。道隆の権勢が華々しかったころには、才色兼備の自信家の青年として描かれていたが、少しずつ横暴が目立つようになっていた。そして道隆の死後、その後を継げなかったところから、もはや危険人物の勢いである。
じつは、専横をきわめた道隆と、その力ずくの引きで異例の昇進を遂げた伊周への不満は、道隆の生前から公卿たちのあいだに充満していた。そして、道隆の妹で一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)も、同様の思いを抱いていたようだ。そのことが、道隆を祖とする中関白家の没落につながっていく。
ドラマでも描かれたが、道隆は自分が死ぬ前に、伊周を関白の座に就けておきたくて、一条天皇に必死に懇願したが、受け入れられなかった。一条天皇が道隆の請願を拒み、その後継に道兼を指名したのは、詮子の意向が働いた結果だと考えられている。それだけ強い反発を買った道隆の自業自得ともいえる。だが、道兼が死去すると、さすがに伊周も、今度は自分にお鉢が回ってくると思ったことだろう。一条天皇も、寵愛する中宮定子の兄である伊周に政権を担当させようと考えていたようだ。
しかし、やはり詮子が立ちはだかった。彼女は一条天皇に、兄の道隆から弟の道兼へと権力を継承させた以上、次もその弟で、ドラマでは柄本佑が演じる道長に政権を継がせるべきだと話したのだ。『大鏡』には、詮子が清涼殿に上がり込んで一条天皇の寝室に入り、涙を流しながら説き伏せたと書かれている。「光る君へ」の第18回では、この『大鏡』の記述とそっくりな場面が描かれた。
もっとも、この記述を史実と言い切ることはできないが、伊周ではなく道長を政権につけるべく、詮子が強い影響をおよぼしたことはまちがいない。
ドラマでも史実でも危険人物になった
道隆が死んだ時点で、30歳の道長は権大納言だったのに対し、その甥で8歳年下の伊周はすでに内大臣だった。だから、周囲も伊周が政権のトップの座に就くものと思っていたようだ。しかし、ふたを開ければ、詮子に説得された一条天皇は、道長を内覧(天皇に奏上する文書を事前に見る役割で、職務は関白に近い)にする宣旨を下した。
さらに6月19日には、道長は右大臣となり、左大臣が不在のため太政官の最上位に登りつめた。そして、太政官の首班である「一上」として、公卿たちの会議を主宰する立場になった。一方、伊周は内大臣に据え置かれたままだった。未熟なまま分不相応な出世を重ねてきたと思われる伊周は、こうして自分の境遇に不満を抱き、危険な人物となっていく。
その様子が、第18回「岐路」では、次のように描かれた。自分が政権担当者に選ばれなかったため、怒りにまかせて妹である中宮定子(高畑充希)のもとに乗り込んだ伊周は、ほとんど八つ当たりのように、「帝のご寵愛はいつわりであったのだな。年下の帝のお心なぞどのようにもできるという顔をしておきながら、なにもできていないではないか!」「こうなったらもう、中宮様のお役目は皇子を産むだけだ」「皇子を、産め!」と、身勝手な要求をしたのである。
実際にそれに似た場面があったのかどうかは、史料には記載がないのでわからない。それにこの場面は、伊周を演じる三浦翔平のアイデアで加えられたともいう。だが、いかにもありそうな場面だった。というのも、史料で確認できる範囲でも、伊周はこのころから、ドラマでは竜星涼が演じている弟の隆家とともに、非常に危険な人物になっていくからである。
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