「大瀧詠一」と「大谷翔平」を生んだ土地に流れる鮮やかな駅メロ 名曲「君は天然色」の使用を許可した「松本隆」の思い
松本隆さんが「駅メロ」をサポート、今も続く「揺るぎない友情」
松本さんと大瀧さんは、1970年代に活躍した音楽グループ「はっぴいえんど」のメンバーで、学生時代からの長い付き合いがあった。その後、方向性の違いからバンドは解散状態となる。
ソロとして起死回生を狙っていた大瀧さんは、没交渉になっていた松本さんに作詞を依頼した。松本さんはその依頼をいったん断っている。大切な妹を亡くしたばかりで、詞が書ける状態ではなかったのだという。松本さんに当時のことを聞いてみた。
「渋谷の街が本当に真っ白(モノクロ)に見えた。眼医者に行った方が良いのでは、と思った位」のショック状態。「彼に電話して『ほかの作詞家を探してくれない?』と言ったんだけど、『松本じゃないとだめ、できるまで待つ』と凄く強く言われて。それならと半年、待ってもらったかな」
真っ先に詞ができたのが「君は天然色」と「カナリア諸島にて」だった。
「僕は曲をもらってもイマイチだったらなかなか書けず苦労する。この2曲は書きだしたらバーッと短時間でできた」
「君は天然色」は、「妹の死という、僕のプライベートを彼に押し付ける気はなかった。妹よりも元気な女の子をイメージし、普遍的なラブソングに聞こえるようにした。もし感動してもらえる要素があるのなら、大事な人を亡くした後、という僕の実体験も影響しているかもしれない」
「(アルバムの)発売は1年くらい遅れたはず。よく待ってくれたと思うけど、レコード会社のディレクターが、僕と一緒に太田裕美(「木綿のハンカチーフ」を作詞)さんを担当した人で頑張ってくれた」
それが1981年3月発売の大ヒットアルバム「A LONG VACATION」である。「君は天然色」は1曲目だ。レコードに針を落とした途端、軽快に鳴り響くメロディに当時、衝撃を受けたファンも多いだろう。シングルカットもされ、その後、現在に至るまで数々のCMにも使われているスタンダード曲となった。
生前の大瀧さんは、故郷についての発言を殆ど残していない。
「秘密主義で、自分のことを喋りたがらなかった。小・中学校、高校時代や家族の話は聞いたことがない。こうして取材を受けるのも『余計なことしやがって』と怒っているかもしれない。『こうしたら喜ぶのでは』と普通に思うことを怒る人だった。それが照れ隠しなのか本心だったのかは今もよく分からない。そうはいっても彼も人間だから。『駅メロ』は彼のために僕がOKした。『故郷に錦を飾る』という感じ。喜んでくれていると思う」(松本さん)
大瀧さんとの一番の思い出は、1969年、細野晴臣さんと3人で福島から軽井沢、清里と出かけたドライブ旅行だった。運転は松本さんと細野さんが交互に担当した。清里の丘の上で車中泊し、180度の視界が広がり、小海線を走る蒸気機関車が見渡せたことが印象に残っているという。
2人の関係は「けんかしても解散しても、友情はゆるぎないものだった、たとえて言えば東京タワーのような」(同)
高くて固い、深い友情は、大瀧さん亡き後の今も、続いている。
「恋するカレン」にかけた「カレーパン」
石川さんの「街おこし」は今も続いている。
「若い子たちが大瀧さんをほとんど知らなくて。『君は天然色』のメロディを聞くと『ああ、あのCMの曲』と気が付くようですが。もっと知ってほしいですね」
経営する「ROYALジャマイ館」では大瀧の代表曲の一つ、「恋するカレン」にかけた「恋するカレーパン」を販売して盛り上げる。毎年のように新作を出し、これまでに「サバカレーパン」、江刺のリンゴを使った「江刺リンゴのカレーパン」と進化してきた。最新作は、地元のピーマンを使ったカレーパンを検討中。
「地域で農業を学ぶ高校生たちと一緒にコラボレーションできたらいいなと。僕らが駅メロを実現させた経緯は、ぜひ他の地域でも参考にしてほしいです」
毎年12月30日の大瀧さんの命日には「ジャマイ館」で追悼イベントを実施、駅構内の展示もファンのために定期的に入れ替えている。夢は、大瀧さんの銅像や記念館設立までと広がっていく。