「少々残酷だとは思ったが」一般メディアがプロレスを相手にしなくなった原点「力道山vs.木村政彦」戦で食い違った両者の言い分
力道山39歳のあまりに唐突な死
ただ、2人のその後の人生を辿ると、「勝者」が必ずしも栄光に包まれ続けることはなかったことが分かる。
力道山は、木村戦の後、大阪を地盤とする実力者で元柔道家の山口利夫を破り、日本一の座を守った。世界戦にも積極的に挑戦し、ことごとく勝利を収めていった。大相撲の横綱だった東富士が、鳴り物入りでプロレス入りしたことがあったが、このときも、力士時代の番付でみれば格下の力道山の方が、人気、実力ともに圧倒的な優位を保った。
しかし、昭和30年代後半になると、ひところの勢いはなくなり、周囲に引退をほのめかすようにもなった。金遣いが荒く、酒を浴びるように飲む。些細な理由で弟子を殴りつける。傍若無人に振舞い、敵も多くなっていた。
そんな矢先の昭和38年12月8日、事件は起こった。力道山が赤坂のキャバレーで暴力団員といさかいを起こし、腹部を短刀で刺されたのだ。背景には、力道山のボディーガード役を望む暴力団同士の反目があったとも指摘された。
入院先で、最初は気丈な様子だった力道山だが、次第に容態が悪化、一週間後に息を引き取ってしまった。39歳のあまりに唐突な死。それは、柔道家に戻ったかつてのライバル木村が、母校の拓殖大を大学選手権優勝へ導くなど、堅実な道を歩み、75年の生涯を全うしたのとは対照的であった。
「日本人のヒーロー」であり続けることの疲れ
『力道山がいた』など、プロレスに関する著書も多い作家・村松友視は解説する。
「プロレスがあそこまでブームになるとは誰も想像していなかったのに、ビジネスとしての可能性を見出した力道山は、やはり天才だった。ただ、植民地時代の朝鮮から来た朝鮮人の力道山に対して、『純日本人のヒーロー』を作りたいという勢力があったはずだ。そのことは、東富士の登場などにもうかがえる。力道山も晩年、望郷の念を強めていたようで、『日本人のヒーロー』であり続けることに疲れを感じていたのではないか」
力道山の“出生の秘密”に触れることは、生前はもちろん、死後もしばらくはタブーだった。本人も、側近や身内にさえ話すことはなかったといわれる。ようやく最近になって、書籍や映画で真実が語られるようになったほどだ。
日本一の武道家を破った希代の豪傑レスラーは、民族問題を心中に抱えながら、最後まで虚虚実実の駆け引きを演じようとしていたのかもしれない。
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