「少々残酷だとは思ったが」一般メディアがプロレスを相手にしなくなった原点「力道山vs.木村政彦」戦で食い違った両者の言い分
NHKなどがプロレスから距離を置くきっかけに
しかし、この試合は、折から浮上した「八百長」にまつわる物語こそが、後世に語り継がれる大きな要因となった。
力道山は試合後、報道陣に対して次のようにコメントしたという。
「木村側から今回は引き分けにしてくれと申し入れがあったが、断った。そうしたら試合で突然、急所を蹴ってきたので、少々残酷だとは思ったが徹底的にやった」
木村の言い分はこうだ。
「2人の間で、引き分けることで事前に話がついていたから、試合では盛り上げるため向こうに適当に打たせていた。ところが、急にルールを無視して本気で攻めてきた」
何らかの“シナリオ”があったものの、それが破られ、皮肉にも結果として「真剣勝負」になってしまったようなのだが、双方とも相手が悪いと主張している。だが、間もなく両者が和解したこともあり、真相ははっきりしなかった。
現在なら「お互いショーであることを意識して、ファンを楽しませようとしている」程度に思われるやり取りだが、プロレス黎明期の当時は違った。しばらくの間、「ショーかスポーツか」「喧嘩沙汰のようなプロレスに未来はあるのか」といった論争が鳴り止まなかったのだ。NHKや一般紙がプロレスの報道や興行から距離を置くようになったのも、この試合がきっかけだったといわれている。
プロレス界の王者と柔道の指導者
力道山は大正13年(一九二四年)、現在の北朝鮮で朝鮮人の子として生まれたとされる。日本名は百田光浩という。戦前に来日して大相撲で活躍。関脇まで昇進したが、親方と衝突したことを理由に突然、引退。プロレスに転向し、修行のため渡米した。昭和28年には日本プロレス協会を発足し、日本のプロレスの始祖として君臨することになった。
一方の木村は、大正6年に熊本県で生まれ、小学生から柔道に打ち込んだ。全日本選手権3連覇など、数々の栄冠を手にし、「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」とまで称えられた最強の柔道家だった。昭和25年にプロ柔道家となり、間もなくプロレスに転向。ブラジルや米国で転戦しつつ、同26年に国際プロレス協会を旗揚げした。
2人は、「決戦」の前、タッグを組み、世界最強といわれた米国のシャープ兄弟に善戦したこともあった。特に力道山は、米国修行時代から、米国人を次々と打ちのめしてきたイメージを帯びており、戦争に負けてまだ10年と経ていない日本人にとって「国民的英雄」でもあったのである。
それでも、「両雄並び立たず」で、ライバル同士の決戦は必然だった。きっかけは、タッグ戦でいつも脇役に回されてきた木村がある日、朝日新聞記者に「実力なら力道山に負けない」と豪語したことだったといわれる。鼻っ柱の強い力道山が、これに激怒したわけだ。
決戦自体は、どこか後味の悪い結末となったのだが、勝敗だけははっきりした。力道山はプロレス界の王者としていよいよ君臨することになる。木村の方はやがてプロレスから静かに身を引き、出身校の拓殖大で柔道の指導者となった。
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