「少々残酷だとは思ったが」一般メディアがプロレスを相手にしなくなった原点「力道山vs.木村政彦」戦で食い違った両者の言い分
日本プロレスの第一人者・力道山と、その宿敵の元柔道家・木村政彦。昭和29年12月22日、東京の蔵前国技館で行われた伝説の試合は、開始後15分足らずで力道山が勝利してしまう。しかも、試合後に両者が語った“事情”はことごとく食い違っていた。「八百長」議論にも発展したこの試合は、NHKや一般紙がプロレス報道と距離を置くきっかけになったともいわれている。日本中が注目したこの試合の後、両者を待ち受けていた運命とは。
(「新潮45」2006年6月号特集「昭和史 13のライバル『怪』事件簿 力道山×木村政彦『因縁の対決』で破られた密約」をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)
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【写真を見る】力道山が刺された現場「ニューラテンクォーター」の様子 国内外のセレブたちが集った
「昭和の巌流島」に熱狂した日本
今年4月28日、東京地裁で出たある判決が話題になった。
プロレスラーのセッド・ジニアス(本名・渡辺幸正)が、平成15年(2003年)に行なわれた参院議員のプロレスラー大仁田厚との試合の際、大仁田のセコンドから場外で暴行を受けたとして損害賠償を求めていた訴訟で、裁判官が大仁田議員らに賠償を命じたのである。判決で裁判官は「プロレスでは、打ち合わせていない攻撃は許されない」と理由を述べた――。
今でこそ、プロレスが「ショー」だとされるのは、不思議でもなんでもない。だが、“やらせ”や“八百長”を想定した「ショー」なのか、時に命をも危うくする格闘技の「真剣勝負」なのか、侃諤(かんがく)に議論された時代があった。
沸点に達したのは、あの往年のヒーロー「力道山」が、絶頂期に向かう直前のころだ。
昭和29年(1954年)12月22日、東京の蔵前国技館。「因縁の対決」「昭和の巌流島」「世紀の一戦」などと仰々しい触れ込みで、日本のプロレス王を決めるべく、伝説の試合が行なわれた。61分3本勝負。第一人者の力道山と元柔道家の宿敵・木村政彦が、リング上で相まみえたのである。当時、登場したばかりのテレビでも生中継され、全国民を熱狂の渦に巻き込んだのだった。
15分49秒であっけなく決着した「世紀の一戦」
午後9時過ぎ、1万人を超す観客が固唾を呑んで見守る中、試合開始のゴングが鳴り響いた。
始めのうちは一進一退の攻防が続く。力道山がプロレス技、木村が柔道技を次々と繰り出すものの、互いに相手の出方を窺っている様子だった。
ところが、試合開始から13分経過した時点で、状況が一変する。いきなり力道山が怒濤の勢いで攻撃し始めた。抱え投げ、そして強烈な蹴りを怒濤のように繰り出したのだ。木村は得意の寝技に入るタイミングを掴めないまま、コーナー追い詰められてゆく。
「力道、殺せ、もっとやれ!」
「木村、立て、やり返せ!」
興奮の頂点に達した観客が、罵声を浴びせる。力道山はますます鬼のような形相で襲い掛かり、張り手や得意の空手チョップで木村の顔や肩や胸をメッタ打ちした。
試合開始から15分49秒。決着はあっけなくついてしまった。木村は、顔面を血で真っ赤に染めてマットに倒れ込み、二度と立ち上がることができなかった。力道山は、“ドクター・ストップ”によるTKO勝ちを収めることになった。
ファンにとっては、制限時間を45分も残しての幕切れに、肩透かしを食った格好だ。当時、盛んにプロレスを報道していた一般紙には、“流血の惨事”に強く反応して、「プロレスはルールのない野獣の戦いだった」「喧嘩に過ぎず、このままだとプロレスの明日はない」などと厳しい批判記事も掲載された。
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