相手が首相でも「ダメなものはダメ」 “政治に食い込む力があった”評論家・屋山太郎氏
相手が首相でも…
77年、日本赤軍により日航機がハイジャックされるダッカ事件が発生。福田赳夫首相は「一人の生命は地球より重い」と超法規的措置により収監中の過激派を釈放、身代金も支払った。
「屋山さんは福田さんに信頼され親しくしていましたが、国際社会ではありえない、と関係をきっぱり断(た)った。相手が首相でも筋の通らないことは許さない潔さがありました」(櫻井氏)
政治家に食い込む力があった
時事通信の後輩記者にあたる政治評論家の田崎史郎氏は振り返る。
「君には国家観がない、と怒られたことがあります。屋山さんは自身の考え方をしっかり持ち、積極的に発言していました。政治家に食い込む力もありました」
最後まで衰えなかった「発言力」
81年に発足した第2次臨時行政調査会(土光臨調)の委員に。国鉄本社で臨調の窓口役だった葛西敬之氏と協力、中曽根康弘政権下における国鉄分割民営化の実現に大きく寄与している。
87年に退社、政治評論家に。官僚が国家運営を主導していると「官僚内閣制」という言葉を用いて批判。官僚と族議員の癒着、官僚の天下り問題を具体的に挙げた。脱官僚、政治主導、改革が核となるテーマだった。民主党政権に期待を抱いた時期もある。
安倍晋三首相による内閣人事局の設置など、公務員制度の改革の進展を政治主導が可能になったと高く評価。それだけに死を悼む気持ちは強かった。
「意欲があり実行する人を応援していました。“国益を考えられるか、言動が国際的に通用するか”を大切にされていた」(櫻井氏)
2024年4月9日、肺気腫のため、91歳で逝去。
発言力は衰えず、今年に入っても月刊誌「正論」で連載を続けた。政治資金問題では、こんなインチキが許されるのかと自民党を糾(ただ)した。屋山節は健在だった。