「ずっと殴られ、罵倒され続けていたが…」アントニオ猪木が「力道山のアイアンセット」を携えて北朝鮮を訪問した本当の理由

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大衆が理解しなければ政治は動かない

 猪木は北朝鮮で、力道山の愛弟子として大歓迎された。そして翌年4月28日と28日、平壌メーデー・スタジアムでブロレス興行、「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催する。モハメド・アリを立会人として呼び、前記の通り2日間で38万人という観客を動員した。スポーツを通じた平和外交。

「政治志向もあった師匠が願っていたのは、きっと国境を自由に行き来できるようになること。その思いを、俺がなんとか実現したいと」

 だがそれ以降、猪木の思いは空転する。

「いま、北朝鮮でも“猪木先生は過去の人だ”と言う人がいる。確かに平和の祭典から十数年がたった。もう議員でもないし、現役のレスラーでもない。でも平壌の町を歩くと、今でもみんな手を振ったり、挨拶をしてくれるんです。俺が言いたいのは、大衆が理解しなければ政治は動かないということ。そのためにはスポーツでも経済でもいい、両国の民間レベルの交流が不可欠なんです。両国の関係は、オヤジの時代から何も変わっていない」

 徒手空拳、議員とレスラーという武器を持たない現在の猪木は、もどかしい思いに駆られている。毎年のように北朝鮮に招待されるものの、具体的な話は何もなく、「子どもの使いじゃないんだから」と苛立ちもする。

 そもそもスポーツによる平和外交など茶番劇だと見なす輩も多い。だが、たとえ蛮勇であろうと、動かないより動いた方がいい。そして今、平壌のホテルに個人事務所を開設する話が進行中ともいう。

「そうなれば……」と猪木は希望を持つ。力道山から引き継いだ“闘魂”、スタジアムに集まった 38万人の熱気は、いまだ彼の体内で燻り続けている。

猪木がゴルフに熱中しなかった理由

 森徹は、力道山の飛距離の凄さを覚えている。ドライバーが当たる と300ヤードは軽く飛んだ。

「でもまあ、オレの方が飛んでいたな。プロのホームランバッターだからさ。飛ばすのが商売だから、負けるわけにはいかない」

 一方、猪木の思い出はほろ苦い。付き人だった彼は、ゴルフは紳士のスポーツだからと言われ、背広を着込んで、力道山の球の行方を追いかけた。

 まだゴルフボールが貴重品だった時代である。ロストボールを探すため、藪の中に分け入り、靴を脱いで田んぼの中で泥だらけになった。見つけないと怒られる。一張羅の背広はボロボロになった。鉛の球のついた練習器具で、意味もなく頭を思い切り殴られ、一週間熱を出して寝込んだこともある。

 だからなのか、猪木はその後、ゴルフをたしなむことはあっても、師匠のようには熱中しなかった。

「RIKIDOZAN」と刻印されたケニースミスのアイアンは、今どこにあるのか? 一説には、生前、力道山が金日成に贈ったという高級自動車が展示されている、妙香山の「国際親善展覧館」にあるという。だが、それを確かめた者は誰もいない。

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部

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