「ずっと殴られ、罵倒され続けていたが…」アントニオ猪木が「力道山のアイアンセット」を携えて北朝鮮を訪問した本当の理由

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師匠を一生恨まずに済んだ「一瞬の出来事」

 若き日の猪木は、力道山を憎んでいた。理不尽に殴られ続けたからだ。靴のはかせ方が悪いと、靴ベラで顔をはたかれ、中途半端な試合をすると、気絶するほど暴行された。同期でエリート候補だったジャイアント馬場には、一度も手を上げなかった。なぜ俺だけがこんな仕打ちを受けるのか。殺意を感じたこともある。

 だがある一瞬の出来事が、師匠に対する思いを変えたという。

 巡業から戻り、一人合宿所にいたある日、力道山から「上がって来い」と電話があった。上のマンションの部屋に行くと、大相撲の高砂親方(元横綱前田山)がいた。

「駆けつけ三杯のジョニ黒を飲まされ、部屋の隅に立っていたら、高砂親方が『こいつは、力さん、いい顔してるね』とオヤジに言ったんです。そのときのオヤジは満面の笑みで、誇らしそうにうなずいていた。その顔を見たとき、はじめて『ああ、オレは期待されているんだな』とわかった。それまでずっと殴られ、罵倒され続けて、自分がどう思われているのかなんて、知らなかった。その一瞬がなかったら……」

 おそらく、後に北朝鮮へ行くこともなかっただろう、と猪木は言う。

 その日の夜、力道山はニューラテンクォーターで刺された。偶然の出来事とは思えなかった。このとき猪木は20歳、その一瞬があって、師匠を一生恨まずに済んだのだ。

猪木、北朝鮮へ

 1994年9月、猪木は北朝鮮へ行く手はずを整えた。力道山の弟子であり、師匠の恩返しをしたい、という理由で入国申請をすると、意外にすんなり許可が下りた。

 手土産として力道山の遺品を持って行きたいと思ったが、適当なものがなかなか見つからなかった。そんな時、両者と旧知のジャーナリストを通じて、森徹が所有していたケニースミスの存在を知った。身の回りの品々はいくつか見つかったが、名前入りの遺品はそれだけだった。

 猪木はそのアイアンセットを手ずから運んだ。

 平壌では、力道山の娘、金英淑が空港まで出迎えてくれた。

「師匠の面影がありました。やはり似ていましたよ。でも、会話はあまり弾まなかった。私の言葉よりも、遺品を通してお父さんの姿を探っているような感じでね」

 師匠の故郷も訪ねた。

「のんびりした田園地帯というか、家屋が密集していなくて、何家族が集落になって、ポツンポツンとある。生家はきれいに残っていました。若かりし力道山が身を鍛えたという重い石もあった。もう兄弟はみな亡くなっていましたが、親戚だというおばあさんが一人いて、私の手を握って離さないんですよ」

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