元中日の強打者からアントニオ猪木に渡され、北朝鮮へ…「力道山のゴルフクラブ」秘話

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いつまでも力道山を息子のように

 酒についての武勇伝は数多い。酒を飲むと人が変わる。けれど森徹はいっしょにいて、不快に思ったことは一度もなかった。

 日本で唯一、頭があがらなかったのが、森信だった。国民的な英雄になっても、信だけはいつまでも力道山を息子のように扱った。

「お袋も気が強い人だったから、力道山といえども全然遠慮しない。力さんが朝帰りして、奥さんに辛くあたったとき、“お前、今頃帰ってきて、なに生意気なこと言ってんだ”と、飛び上がって引っばたいたこともある。お袋には何を言われても絶対服従だった」

 そんなときは後から森徹のところへ電話がある。

「お母さん、まだ怒っているのか」
「カンカンだよ」
「弱ったな。お前、うまくやっておいてくれよ」

 そんなやり取りもあった。

 野球好きの力道山が、中日球場へ練習中の森徹を訪ねてきて、「ホームランを打たせろ」と言ったことがある。森徹が投げてやったが、なかなか打てない。負けず嫌いなので、ホームランが出るまで力任せにバットを振り回し、やっと一本スタンドに入った。

 もともと柔道少年で有段者の森徹は、柔道着を身にまとえば、力道山にも勝てた。

「裸では勝てないけど、柔道着を着ると俺の方が強いんだ。一度柔道着を着て、大外で一本投げ飛ばしたことがある。あのときは本気で怒っていたね。『オレにまともに向かってきやがって、大した野郎だ』なんて負け惜しみを言って」

死化粧を施した森の母親

 森徹がチームの移籍をめぐって揉めたときは、後見人として力道山が駆け回ってくれた。クラブ・リキで飲んでいると、力道山が汗をかきながら戻ってきて、

「オレがこんなに苦労しているのに、お前はのんびり酒食らって何やってんだ」
「おれだって好きで飲んでるわけじゃない」

 と喧嘩になった。このとき初めて空手チョップが森徹の胸に炸裂した。

「結局、客がいなくなった後、また2人で飲みなおした。人がいるときは派手にやる。人がいなくなると大人しくなる。根っからのショーマンだったんだよ」

 そんな力道山が刺されたのは1963年12月8日。場所は赤坂のナイトクラブ、ニューラテンクォーター。暴力団のチンピラに絡まれての出来事だった。一週間後、腹膜炎を発症し、山王病院で死亡する。

 森徹は合宿先の伊豆で、力道山が危ないという知らせを聞いた。夜、車を飛ばして駆けつけた。病室に入ると、母親の信が死化粧を施していた。腕に触るとまだ温かかった。

「なんともいえない気持ちだった。お袋が泣いていて……。いまでもその光景は鮮明に覚えているよ」

 それから約30年後のある日、森徹は、形見分けされた力道山のゴルフクラブの行方を尋ねられた。それが冒頭の話へと続くのだ。

 ***

 ゴルフクラブの行方を尋ねてきたのはアントニオ猪木だった。猪木は一体なぜ、力道山の遺品を北朝鮮に届けたのか。後編では猪木本人が登場し、「師匠」力道山を憎んでいた若き日、そんな恨みが消えたある出来事、北朝鮮訪問時の思い出などを赤裸々に明かす。

後編【「ずっと殴られ、罵倒され続けていたが…」アントニオ猪木が「力道山のアイアンセット」を携えて北朝鮮を訪問した本当の理由】へつづく

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部

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