元中日の強打者からアントニオ猪木に渡され、北朝鮮へ…「力道山のゴルフクラブ」秘話
柔道好きな少年と育んだ絆
森徹は、昭和10年、満州の熱河省に日本の初代警察署長として赴任した、信の2番目の夫との間に生まれた。柔道が好きな少年だった。歳の離れた兄が1人いたが、満州医科大学へ進み家を出ていた。力道山は、森徹少年を肩車して場所に出かけ、取組が終わると一緒に家に戻って遊んでくれた。
「力道山はまだ10代で、親元を離れて相揆の世界に入ったばかり。苦労していたから、お袋に可愛がられて嬉しかったんだろうね。お袋を、“お母さん、お母さん”と呼んでいた。ご飯を食べさせてもらったり、よれよれの浴衣を繕ってもらったり。うちに来ているときが、いちばん心が和む時間だったんじゃないかな」
森徹は、力道山が北朝鮮出身であることを知らなかった。
「発音に少しおかしなところがあって、舌足らずみたいな話し方をする。そんな話を、当時母親としたことを覚えているが、あまり気にもしなかった」
と回想する。
プロレスラー転向後に再会
やがて終戦を迎え、それと同時に森信の“帝国”も滅んだ。料理屋ごと財産を没収され、森親子は文字通り裸一貫で日本に帰国した。父親とは死に別れ、兄も戦死していた。
帰国直後、京都の知り合いに預けられていた時、森徹は巡業に来た力道山に会っている。しかし声をかけることができなかった。
「八坂神社のそばだったな。会いたくてね、土俵を見に行ったよ。目の前を通っていったけれど、言葉をかけられなかった。胸がいっぱいになっちゃって」
本格的な再会は、森徹が早稲田大学に進学し、野球部のレギュラーになってからだ。すでに力道山は相撲界を引退し、プロレスラーに転向、1953年に始まったテレビ放送を背景に、国民的な英雄になっていた。眩いばかりのスーパースター。レスラーになりたいという相撲部の先輩を連れ、やや気後れしながら、力道山の道場を訪れた。
力道山は気さくに応対してくれた。学生服姿の森を見て、
「徹ちゃんか? いやあ大きくなった。いま何やってんだ?」
「早稲田で野球をやっています」
「ああ、早稲田の森というのは、徹ちゃんのことだったのか」
そんな言葉が交わされた。
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