元中日の強打者からアントニオ猪木に渡され、北朝鮮へ…「力道山のゴルフクラブ」秘話
ドライバーはジャイアント馬場に
「最初はワンセットあったんだ。ドライバーはジャイアント馬場にあげて、スプーン(3番ウッド)は豊登(元大相撲力士・プロレスラー)にやった。4番ウッドはうちの次男坊に使わせていたら、無くなっちゃった。どこかに紛れ込んだのか、盗まれたのか。アイアンは2番から9番まであって、9番は木にぶつけて折ってしまった。猪木に渡したのは、3番から8番アイアンまでの6本だ」
ちなみに2番アイアンは最近まであって、某医大の救命救急センターで主任教授だった先生に、還暦祝いにプレゼントした。ピッチングとサンドウェッジはまだ手元にある。
「ウェッジ、重くてフェースが厚いけれど、バンカーからよく出るから気に入って使っている。そんなわけで、ワンセットあったものがバラバラになってしまった。もし全部揃っていたら、今ごろかなりの値段が付くんじゃないかな」
力道山の趣味はゴルフと狩猟だった。とくにゴルフには熱中し、暇があればゴルフ場に出かけ、腕力にものを言わせて糸巻きボールを豪快に引っぱたいていたという。
歴史の中の小さなエピソード。けれど掘り起こせば、語られることのなかった物語が紡ぎ出される。その発端は、森徹自身の幼き日の記憶から始まる。
少年力士・力道山
森徹と力道山が出会ったのは戦前の満州。彼の母親が経営していた料理屋「万里」に、相撲の巡業で来ていた力道山が出入りしていたのがきっかけだった。正確に言えば、母親が、“褌かつぎ”時代の若い力道山を哀れんで、なにかと面倒を見てやっていたのだ。
母親、森信(のぶ)は女傑である。
明治32年、函館の海産物問屋の一人娘として生まれ、結婚後すぐに夫と死別、叔父を頼って樺太に渡った。叔父の料理屋で働きながら、製材業で一財産を築く。満州事変が勃発すると、砲火の下をくぐって北京に乗り込み、大邸宅を買い取って料理屋を開業した。
やがて「万里」は、軍の幹部たちが足繁く通う有名な店となり、使用人や芸者の数は数百人に及んだという。“マレーの虎”山下奉文が訪れたこともある。天津や上海に支店を出すなど事業は順調で、陸軍や海軍に軍用機を献納したという逸話も残っている。
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