5分で分かる「SHOGUN 将軍」の魅力 真田広之、浅野忠信、アンナ・サワイ、二階堂ふみの演技力が光る

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死を望む鞠子

 名家に生まれながら「謀反人・明智家の娘」という汚名を背負って生きる鞠子は、信仰に救いを見出したキリスト教徒だ。父親は娘を自身の企てに巻き込まないよう、虎永の家臣・戸田広松の息子に嫁がせた(つまり格差婚)のだが、意に沿わぬ結婚は鞠子をさらなる不幸に陥れた。

 彼女は夫を決して愛そうとはせず、ただ救済としての死のみを望む。夫はそんな鞠子を支配しようと日常的に暴力をふるい、だが決して死ぬことは許さない。彼女にとっては人生そのものが戦いであり、死によって、そんな人生から永遠の解放されることを願っているのだ。そんな彼女に虎永は、いい頃合いで「父から受け継いだ使命=太平の世を実現すること」をささやくのだ。

 かくして自分の死に意味を与えられた彼女は、敵に対して一歩も引かずに秘めてきた怒りを爆発させ、ドラマに登場するどんな男たちよりも壮絶な最期を迎える。

 鞠子のあまりに壮絶な死に様は、間近で見ていた藪重をある意味で崩壊させてしまう。

 ドラマ前半で、藪重は死のピンチに陥り「所詮死ぬ運命なら」と自ら切腹しようとするのだが、すんでのところで救出される。切腹を選んだことに対し、按針が示した敬意に藪重は得意げな表情で答える。だが鞠子の生々しい死を経験した藪重は、もはや切腹に誇りや美徳を見出すことができなくなってしまう。

 見えてくるのは、あまたの死の上で繰り返される権力闘争の不毛さと、そこに関わっていた自分の醜さでしかない。その中心にいるのが、誰に対しても決して本心を見せず、家臣たちの死を利用してまで大業をなそうとする主君、虎永なのである。

虎永の複雑なキャラクター

 だが虎永は本当に、ただの冷酷非道な政治家なのか。

 ドラマ前半の虎永が繰り返す「戦争を知らない人間が、戦争をしたがる」「私は自から戦争を仕掛けたことはない」という言葉に嘘はないし、虎永は一貫して天下太平の世を目指している。虎永が家臣たちに「役割を果たす」よう仕向けたのは、あくまで戦争をせずに大業をなすためだ。

「虎永の家臣であると同時にキリスト教徒」という数人の人物が「人間は一面では測れない」と語る場面が何度かある。それは虎永も同じで「戦争を決してしたくない虎永」も「大業のために家臣に死を求める虎永」も、同じ虎永の中に存在するのである。

 こうしたキャラクターの複雑さを演じること、ある種のヒーローとして成立させ、観客に敬意と威厳を持って受け入れてもらうことは、それはそれは恐ろしいほど大変なことだと思う。

 虎永を演じる真田広之の演技は素晴らしいものだ。ライバルである大老・石堂と対峙し恭順を示しながらも一歩も引かず、部下の勇気を称えながら切腹を申し渡し、裏で石堂と繋がる藪重を弄ぶようにいたぶり、世継ぎ・八重千代にはその優しさで慕われ、按針と無邪気に海に飛び込んでみせ、家臣を切腹に追い込みながら同時にその死に涙する。

 こうして書いてみると1人の人物の姿とは思えないのだが、そのすべてが1人の人物の中にあることを真田が説得力を持って表現している。往年のファンには驚きだが、このドラマのなかで真田が刀を振るう場面は、たったの1シーンしかない。それでも彼の切れ味がドラマ全体に横溢している。

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