泉鏡花の名作は“復讐”が目的だった? 尾崎紅葉に引き裂かれた神楽坂芸妓との恋、小説と正反対の結末とは

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「先生は鏡花君にとつて至上権威」

 いずれにせよ、紅葉は鏡花を叱責し、鏡花は師の言葉に従った。

 このときの様子を、紅葉の弟子の1人であった徳田秋声は、「先生は鏡花君にとつて至上権威なので、辛かつたと見えて泣いてゐた。私達も強ひては言へなかつた」と書き残している。

 一方、別れを伝えられた桃太郎はどうだったのか。鏡花はのちに、芝居用に書いた「婦系図」のシーンで、その時の2人のやりとりを、こんなふうに再現している。

「切れるの別れるのって、そんなことは芸者の時にいうものよ。私にゃ、死ねと言って下さい。(二者択一を迫られ)お前さん、女を棄てます、といったんだわね」
「堪忍してくれ。済まない。が、確かに誓った」
「よくおっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい」

 愛し合う2人の仲は師によって裂かれた。しかしこの悲恋には続きがある。

紅葉の存在が鏡花の文学を豊穣なものに

 2人を叱責した紅葉は、当時胃がんを患い病床に臥していた。余命はいくばくもなかったことは鏡花も知るところだった。

 半年後の明治36年10月、紅葉は弟子たちに見守られながら息を引き取る。享年35。

 その師の死を待っていたかのように、鏡花は桃太郎を呼び寄せ一緒になった。正式に籍を入れたのは大正15年。夫婦仲のよさは有名で、互いの名前を彫り込んだ腕輪を肌身離さず持っていたともいう。結局、2人は最期まで幸福に暮らし、添い遂げた。

 はたして鏡花は、死を迎えつつある師を思い、別れるふりをしたのであろうか。

 鏡花は明治40年、この悲恋物語を『婦系図』として書き上げた。師紅葉への“復讐”として書かれたとされる作品だが、皮肉なことに実生活の悲哀を補って余りある名作となった。真相はどうであれ、師尾崎紅葉の存在が、弟子である鏡花の文学を豊穣なものにさせたのは事実である。

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部

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