泉鏡花の名作は“復讐”が目的だった? 尾崎紅葉に引き裂かれた神楽坂芸妓との恋、小説と正反対の結末とは
紅葉自身も神楽坂の芸者を囲っていた
やがて明治36年4月、鏡花が桃太郎を落籍し同棲している事実をつかんだ紅葉は、鏡花を呼びつけて激しく叱責する。その様子は、紅葉自身の日記にこう記されている。
「暱妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉(弟子の一人)又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折艦す。十二時放ち還す。疲労甚だしく怒麗の元気薄し」
なぜ紅葉は2人の仲を嫌ったのか。表向きは、愛弟子の文学的人生を危惧した親心から出た行為だったとされている。芸者にうつつを抜かし身を滅ぼして鏡花の文学が横道に逸れることを畏れたのである。
だが鏡花と桃太郎の恋愛は、単なる遊びではなく真摯なものだった。
もとより紅葉自身、神楽坂の芸者を囲っていた。小ゑんと呼ばれる芸者で、彼女は紅葉臨終の場へ同席するなど、半ば公に認められた存在でもあった。だが紅葉には、芸者を人間的に一段下に見る傾向があった。
鏡花の態度そのものに憤激した説も
結婚について紅葉が記した一文がある。それには、「(妻たるべきものは)温かな両親の間にうまれて、温かな家庭の教育を受けた者でなくては宜(い)けない。斯(そ)ういう女は米の飯のようなものだ」と、およそ世俗的な文言が綴られている。
紅葉にしてみれば、芸者などは妻になるべき女性ではなく、愛弟子がそのような女性と一緒になること自体が我慢ならなかったのだろう。一説には、師の自分に一言も相談せずに同棲を始めた鏡花の態度そのものに憤激したという話もある。
あるいは、芸妓を落籍するなどまだ身分不相応、身の程知らずだと考えていたのか。「婦系図」の中で、鏡花は紅葉をモデルにしたと思われる人物に、こんな激しい啖呵を吐かせている。
「汝が家を野天にして、婦とさかつて居たいのだらう。それで身が立つなら立つて見ろ。口惜しくば、おい、恁(こ)うやって馴染の芸者を傍に置いて、弟子に剣突をくはせられる、己のやうな者に成って出直して来い」
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