プロ野球「昭和の乱闘」は激しすぎる…張本勲がバットを持って大暴れ!相手チームの監督は「暴力団のやる行為だ」と非難
「野球できへんようにさすぞ!」
試合後、事態を重く見た中沢不二雄パ・リーグ会長が夜行列車で大阪入りし、調査を行った結果、中川球審の状況判断が悪かったとして処罰(内容は非公表)、水原監督に戒告的要望書を出す――の2つの措置を取り、張本に対しては、「体当たり自体については問題ない」と裁定。バットを持ってスペンサーに詰め寄った行為も、「暴力的行為と言うより、威嚇行為」と解釈し、「プレー以外の問題なので、直接連盟からは処置しない」と不問にされた。
要望書を受け取った水原監督は「ハリ、こういうのが来たぞ。バットを持って出ていったあとの行為は悪かった。それ以外は別に悪いことはなかったのだ。これからも大いにハッスルしていいんだぞ」と言い聞かせたという。大らかな時代だったことがうかがえる。
その後も張本は、1965年4月10日の東京(現・ロッテ)戦で、スパイクを立てて二塁に滑り込むラフプレーが原因で乱闘騒ぎになるなど、何度となくトラブルの主役になったが、23年間の現役生活で退場は1度もない。
巨人を経て、現役最後の2年間はロッテでプレーし、史上初の3000安打を達成。乱闘寸前の事態をド迫力の“止め役”になって鎮めたのが、1981年4月6日の西武戦だった。
2回、西武のルーキー・石毛宏典が奥江英幸から左手首に死球を受け、その場にうずくまった。直後、捕手が「バットだ(ファウル)」とアピールしたことから、怒った西武ナインがベンチを飛び出し、本塁付近でもみ合いになった。
だが、張本が「お前らいい加減にせんと、野球できへんようにさすぞ!」と一喝すると、たちまち全員シュンとなり、一瞬にして騒ぎは収まったという。