元皇族の庶子を自称、17歳で宮様と熱愛、元首相と勝手に入籍…皇族詐欺の元祖「増田きぬ」の波乱万丈人生

国内 社会

  • ブックマーク

稔彦氏は冗談のつもりだった?

 彼女が、再び世間を騒がせたのは、昭和53年。“被害”にあったのは、戦後初の総理大臣を務めた元皇族の東久邇稔彦氏だった。増田きぬは、彼の知らない間に婚姻届を出して入籍し、東久邇夫人におさまってしまったのだ。

 当時、稔彦氏は91歳。妻である聡子(としこ)夫人(明治天皇の第9皇女)を病気で失って、わずか半年後の出来事だった。

 当然のことながら、稔彦氏側は、「結婚を約束した覚えはない」と、婚姻無効の訴訟を起こす。しかし増田きぬは、「2人の合意でしたこと」と主張。東京地裁の第一審では、「すぐに離婚すること」という条件付きながら、「婚姻は有効」との裁定が下ってしまった。

 当時の事情をよく知る人物は、コトの次第をこう説明する。

「増田きぬと、東久邇稔彦氏との付き合いは、昭和32、3年頃から始まったと聞いています。一説には、稔彦氏が久邇朝融氏から、きぬを譲り渡されたという話もあります。きぬは、都内目黒区にある稔彦氏の青葉台のお屋敷に自由に出入りするようになっていて、いろいろ土産物を持っていくものだから、屋敷の老女たちとも仲が良くなっていた。そして聡子夫人が亡くなった後、稔彦氏の方から『どうだ、一緒にならないか』という話があった。

 きぬも最初は冗談かと思っていたらしいのですが、会うたびに言われるものだから、気が変わらないうちにと、屋敷にあった稔彦氏の印鑑をこっそり持ち出して、勝手に婚姻届を出してしまった。稔彦氏は、口の軽い方だったから、冗談のつもりで言ったと思うのですが、脇が甘かったために、結果的に彼女に“籍ジャック”されてしまったのです」

きぬの目的は「東久邇」の名字

“被害者”である東久邇稔彦氏は、もともと歴代皇族のなかでも、“やんちゃ皇族”と呼ばれ、奔放な人生を送ってきた人物である。大正9年に単身フランスに留学。画家のモネや政治家クレマンソーと親交を深め、「資本論」の研究もしたという異色の人で、終戦直後には、昭和天皇に請われて首相に就任し、宮様内閣として敗戦処理に奔走した。

 その後は皇籍を離脱し、平民として生きるべく、新宿の闇市で乾物商や古美術商、さらには“ポンせんべい機”販売などを営んだが、いずれも失敗。昭和25年には、新興宗教「ひがしくに教」の開祖になったが、公職追放中の身にふさわしくないというGHQの意向を受け挫折。戦前に所有していた東京・高輪の約4万平方メートルの「御用地」も国有地となり、増田きぬと出会った当時は、財産も少なくなっていた。

 したがって、増田きぬとすれば、入籍の目的は財産ではなく、あくまでも「東久邇」という元皇族の名字、肩書きだったに違いない。事実、戸籍上東久邇夫人となった彼女は、以降、やりたい放題の行状を繰り広げていくのである。

次ページ:さまざまなトラブル

前へ 1 2 3 4 次へ

[3/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。