元皇族の庶子を自称、17歳で宮様と熱愛、元首相と勝手に入籍…皇族詐欺の元祖「増田きぬ」の波乱万丈人生

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波乱万丈な「椿姫物語」

“椿姫”こと、増田きぬが世に出たのは、昭和25年。9月4日付の新聞紙上に、「椿姫楽壇に咲く」という華々しいタイトルで登場した。

 記事の内容は、北白川宮成久(なるひ)王の“ご落胤”として出生し、久邇宮朝融王の愛人として社交界に話題をまき、その数奇な人生を題材に「椿姫物語」という映画まで企画された美貌の女性が、今秋“椿智香子”の芸名で華々しくデビューする――、というもの。

 記事中には、パリに外遊中、交通事故死した成久王に仕えた女官が自分の母であること、他の姉妹たちから離されて特別に養育されたこと、いつからか椿の花に対する不思議な愛情があり、庭も着物も居間の飾りもすべて椿の花で整えるようになったこと、それでもわが身を思うと、絶えず孤独の念に襲われてきたこと、などが記されている。そして最後に、「事実無根のことで、まったく迷惑している」と語る北白川家の否定談話。

 この談話を裏付けるように、彼女の出生は後日、あっさりと暴露されてしまった。戸籍によると、本籍は群馬県邑楽(おうら)郡で、父親は農業を営む増田吉松、母親はくま。彼女は彼らの四女として大正6年1月26日に出生した。だが彼女自身は、「増田の戸籍に入っているのは、養女としてもらわれたから」と主張している。

「椿御殿」で家事免除の特別扱い

 ご落胤説の真偽はどうであれ、その後の彼女の半生は、自身の“物語”によれば、確かに波乱に富んでいた。

 父親が死んだ後、母親は娘たちを連れて上京、当初は品川に住み、昭和13年に目黒区鷹番町に家を買った。この家は、通称“椿御殿”と呼ばれ、姉妹の中で、なぜかきぬだけが家事を免除され、特別扱いを受けていた。毎月相当な額の金が椿御殿に届き、一説には「満州で軍関係の仕事をしているある人物が、生活費を出してくれていた」という。

 17歳のときに、ある映画に出演することになったのがきっかけで、皇族の久邇朝融に出会い激しい恋に落ちる。しかし朝融は皇族のため離婚できず、それを苦に彼女は一時自殺を図ったこともある。

 箱根の強羅に約4000坪の別荘を購入したのは昭和15年頃で、終戦後、この別荘は「クラブ椿山荘」に変わり、米軍の将校と性的サービスに従事する女性が出入りする宿の様相を呈する。彼女はそこの経営者として敏腕をふるう一方、赤坂の一角にモダンなパーと料理店をオープンし、話題を集めた。

 その後、アメリカに渡り、ロサンゼルスで事業を起こすが失敗、しかしその地でも北白川のご落胤、久邇朝融の愛人で通したため、皇室に弱い日系人の間で有名になる。昭和45年には、ケンイチ・カタヤマ氏と結婚してハワイに住むが、昭和52年に離婚。再び強羅に戻ってきて、「椿山荘」の経営に携わることになった。

 まさに波乱万丈の人生だが、いずれいせよ、ここまでは戦後よくあった皇族関係のご落胤話、といえなくもなかった。だがそれから、彼女は再び世に登場し、本格的な“皇族デビュー”を果たすことになる。

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