渥美清との深い友情、お揃いの位牌も…寅さんの親友役、喜劇役者「関敬六」の生き方
税務署勤務から喜劇役者へ
ここで関さんの経歴を振り返ってみたい。
栃木県出身。陸軍特別幹部候補兵として従軍したというから、成績は優秀だったのだろう。戦後、法政大学に入学。卒業後は浅草の税務署に勤務したが、芝居小屋や劇場が立ち並ぶ浅草六区興業街に入り浸りになり、税務署を退職。「人を笑わせる仕事をしたい」と喜劇役者・榎本健一(1904~1970)が率いる「エノケン劇団」を経て、1953年、ストリップ劇場「浅草フランス座」に押しかけて入門した。
当時のフランス座では踊りと踊りの幕間にコメディアンが出演。楽屋に「おーっす」と大きな声で入ってきた見習いが渥美さんだった。
「まったく汚ねぇ楽屋だなぁ。それに何だか薄ら寒くって、こっちまで貧乏くさくなっちゃうよ。なぁ、ニイ(兄)さん」
寅さんのようなセリフで関さんに語りかけてきたという。
丸顔の関さんと四角い顔の渥美さん。2人はすぐに親しくなった。国際劇場の近くに安酒場があり、もつ鍋をつまみに2級酒を飲み、鼻歌まじりで夜の浅草を歩いた。
吉原の枝垂れ柳が「おいで、おいで」と手招きをしているようだったが、吉原の門をくぐったところでカネはない。うらめしく見過ごしながら龍泉寺の近くにあった関さんの下宿に向かった。3畳一間しかなかったが、一緒にせんべい布団にくるまって寝たこともあった。
話を戻そう。
1975年、浅草で自らが主宰する劇団「関敬六劇団」を旗揚げし、座長になった関さん。まさに「一国一城の主」になったが、小岩にあった店の経営も楽しかったようだ。開店時の店名は「民謡酒場 けいろく」。だが、演歌が下火になったためラウンジに切り替えた。
店の客は芸能関係者だけではなかった。ざっくばらんな関さんの人柄に惹かれ、さまざまな人が集まってきた。競艇の予想屋、パチンコ店の店長、トラックの運転手……。みんなで一緒に歌ったりコントを演じたりして、笑いが絶えなかった。
「僕はホラ、芸のうまい俳優じゃないでしょ。でも、それがお客さんには親しまれたんだなあ」
関さんが真顔でそう話したことを私はよく覚えている。
さて、関さんといえば、映画「男はつらいよ」シリーズで寅さんのテキヤ仲間の「ポンシュウ」などを演じた。演技に厳しい山田洋次監督(92)は関さんの起用に積極的ではない時期もあったそうだが、渥美さんにとっては心を許せる仲間が身近にひとりでもいることは本当に心強かっただろう。
何度もNGを連発する関さんを見ながら、「監督、こいつの場合は仕事に来ているんじゃなくて遊びに来ているんですから」と冗談を飛ばしてかばったこともあった。ロケの合間に渥美さんから小遣いをもらって、競艇や夜の街に繰り出すことも多々あった。
極めつきは第41作「寅次郎心の旅路」(1989年)だろう。関さんの出番は後ろ姿のワンシーンだけだったが、ロケ先のウィーンへの往復の飛行機は渥美さんの隣のファーストクラスだった。そのときの写真を関さんは大切に持っていた。
岡山ロケの合間には、渥美さんとおそろいの位牌を作った。「朋友渥美清と之を作る」と刻まれた位牌。私も見せてもらったが、渥美さんは病気については何も教えてくれなかったそうである。1996年8月4日、渥美さんが転移性肺がんのため68歳で旅立ったときも何も知らなかった。
「お前ずるいよ。なんで先に死んじゃったんだよ」
テレビの追悼番組を収録中、男泣きした。直後、脳梗塞に倒れたが、懸命なリハビリの末、浅草の舞台に復帰。「喜劇の灯を消すな」を合言葉に1998年、コメディアンの橋達也さん(1937~2012)と「お笑い浅草21世紀」を旗揚げした。
[2/3ページ]