旭日双光章「タイガー・ジェット・シン」は資産50億超、学校や財団を運営するカナダの大実業家だった

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「猪木が一番強かった」

 1977年2月10日、前掲のフェンス・マッチでは、シンが大流血の末、場外でダウン。20カウント以内に戻って来られず、猪木のリングアウト勝ちとなった。実質的なドクター・ストップとも言える完全勝利であり、決着のゴングの瞬間、場内の観客も大喜びだ。ところが、猪木だけがいきり立ち、シンに何か叫んでいる。

「てめー、立て! 来い! この野郎!」

 それを聞いたシンは、カッと目を見開き、おぼつかない足取りながらリングに上がると、再び猪木と凄絶に殴り合う。最後はブレーンバスターからバックドロップに繋がり、“幻の延長戦”も制した猪木は、控え室で次のようにコメントした。

「俺がシンの立場なら、あれほど出来ていたかな……あの根性には、本当にカブトを脱ぐよ」

 さらにシンについて、猪木のこんな発言が残っている。

〈シンが来た頃っていうのは、どんなにいいレスリングをやってもお客がまったく振り向いてくれなかったんだよね。俺はよくプロレスを鉄道のレールにたとえるんだけど、基本のレールはグラウンドとかのオーソドックスなレスリングであることは間違いない。だけどときには、刺激というある種の脱線もプロの興行には必要なんです。(中略)新日本プロレスのストロングスタイルがここまで続いてこられたのは、その局面ごとに変化する(反則裁定までの)ファイブカウントの幅を持っていたことだと思うんですよ〉(前出・拙著より)

 そんな猪木の無軌道な発想とファイトに恐れずについて行った最大のライバルこそ、シンであったことは論をまたない。1970年代の新日本プロレスを実質的に支えた猪木とシンは、やはり根っからのファイターだった。

 2005年以降、新日本プロレスが(株)ユークスによる新体制となっても、シンに出場オファーがあったという。だが、シンは〈そこに猪木がいないから〉(ベースボール・マガジン社刊「アントニオ猪木50Years (上巻)」より)参戦することはなかった。

 ところが2010年12月3日、シンは来日し、サーベル片手にリングに向かった。同日、おこなわれた、猪木のデビュー50周年を祝う記念興行に現れたのだ(主催はIGF)。目指すリング内には、当然、猪木がいた。セコンドがリングに入るのを防ごうとするが、猪木がそれを避けさせ、2人はリング上で対峙した。すると、シンがうやうやしく、飾りのついた箱を、猪木に差し出す。猪木が怪訝な表情でそれを受け取った瞬間、大ハプニングが起きた。

「あっ!」

 箱から火柱が上がったのである。かつての抗争さながらの狼藉に、大きく手を広げ、臨戦態勢を取る猪木に、シンも挑みかかろうとする。だが、次の瞬間、シンはサーベルを猪木に差し出した。そして、2人ともニヤリと笑い、がっちりと握手、そして、抱擁した。

 今回の叙勲にあたり共同通信のインタビューを受けたシンは、こんな一言を残している。

「猪木が一番強かった」

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。愛知県名古屋市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。シナリオライターとして、故・田村孟氏に師事。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に『アントニオ猪木』(新潮新書)、『プロレスラー夜明け前』(スタンダーズ)など。BSフジ放送「反骨のプロレス魂」シリーズの監修も務めている。

デイリー新潮編集部

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