旭日双光章「タイガー・ジェット・シン」は資産50億超、学校や財団を運営するカナダの大実業家だった

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「伊勢丹襲撃事件」の真相

 1973年11月5日(月)、猪木は妻の倍賞美津子、実弟の猪木啓介と、東京・新宿の伊勢丹デパートで買い物をしていた。午後6時少し前、猪木が先に伊勢丹の正面入り口を出た。その時、シリーズ参戦中だったシンと、2人の外国人選手と鉢合わせ、瞬間、3人が猪木を襲撃した。猪木を殴打し、ガードレールへぶつけ、現場には血痕も残った。外国人勢は嵐のように立ち去った――この出来事については、当時から、やらせか否かで議論を呼んだ。

 今世紀になってから新日本プロレスの元レフェリー・ミスター高橋氏が自身の著書などで、「仕込み済みのドラマ」と明言した。だが一方で、筆者が話を聞いた元東京スポーツ編集局長(当時はデスク)・桜井康雄氏(「ワールドプロレスリング」の解説者)の見解は全く異なる。

「やらせとか、絶対にそんなはずはない。やらせなら、なんで東スポをその場に呼んでくれないんです? 今もって、この時の現場写真は一枚もないんです。そんな乱闘、したって意味がない。わからないんですから」

 事件で全治一週間の裂傷を負った猪木は「この決着は、必ずリング上で付けます!」と明言。事件から11日後の11月16日、二人は一騎打ち。大流血戦の末、猪木の反則勝ちとなった。11月25日の読売新聞の朝刊23面には、こうある。

〈「テレビのプロレス番組で、血を流すどぎつい場面が増えている。茶の間の子どもたちへの影響も考え、警察は取り締まるつもりはないか」―最近、こんな投書が警視庁に相次いでいる〉

 どう考えても猪木とシンの抗争を槍玉に挙げたものだった(当時の全日本プロレスは東京五輪柔道金メダリストのアントン・ヘーシンクのプロレス・デビューに向けて湧いていた)。

 以降、猪木とシンは、文字通り、血で血を洗う抗争を展開した。新日本プロレスで初のデスマッチをしたのもこの両雄だ(リングの周囲に若手などを配置。選手がリング外に出ようとしたらすぐに戻すランバージャック・デスマッチ。猪木が勝利)。シンが猪木の顔面に火の玉を投げつけ、即刻反則負けになったこともある(1974年6月20日)。この時、帰りのバスに乗り込もうとするシンにファンが汚い言葉で叫ぶと、意味がわかったのか、そのファンを殴打したというオマケまでついている。

 プロレス記者の間では、「シンと目を合わせるな」が合言葉になった。合ったら最後、襲われるからである。今で言うヘッドバンキングさながらに頭を上下に振りながらサーベル片手に入場するシンに、逃げ惑う観客の姿は、昭和の新日本プロレスにお馴染みのヒトコマと言って良かった。

 火の玉事件から6日後の再戦では猪木がアームブリーカーでシンの右腕を破壊する“腕折り事件”が勃発。その後も、ゴング直前のシンの襲撃で猪木がアバラを骨折し、10分間の控え室での応急手当の末、改めて試合が再開(1976年8月5日)したこともあれば、仲間の乱入や場外逃亡をさせぬため、鉄格子でリングを囲った“フェンス・マッチ”で対戦したこと(1977年2月10日)もあった。

 シンの師匠はジャイアント馬場を一流のレスラーに育てたことでも知られるフレッド・アトキンス。正統派の試合もお手のものだった。稀代の悪役ゆえ、巡業先ではスポーツジムの類いに行けず、もっぱらホテルの屋上を開けてもらい、練習していたという。

 1981年7月に全日本プロレスに移籍するまで、シンは猪木と37度の一騎討ち。しかも、タイトルマッチでも特別なデスマッチでもない、ごく普通のシングルマッチが17回ある。会場は沖縄での2回を含め、全国津々浦々にわたり、それも全てメインエベント。つまり、2人が闘うというだけで、客を呼べたのだ。

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