難破船の船長は餓死した船員の肉を…食人という“十字架”を背負った男にとって最も辛かった風評とは【ひかりごけ事件の真相】
「懲役1年では軽すぎる」
アンデス山中に墜落した飛行機の生存者たちが、死者の肉を食べて生き抜いた「アンデスの聖餐」、日本人男性が白人女性を殺して食べた「パリ人肉殺人」など、食人事件は他にもある。奇しくもこの事件が起こったちょうど同じ頃には、補給が途絶えて飢餓地獄となった南方戦線で、味方や敵兵の屍肉を食らう兵士が続出した。
しかし、食人により正式な裁きを受けたのは、世界広しと言えども、この船長ただ1人である。
船長は網走刑務所に収監され、昭和20年6月、仮出所。しかし、「食人」という重すぎる十字架を背負った船長のその後の人生は過酷だった。
合田氏の取材に対し繰り返し、「わしのやったことは許されることではない。地獄に堕ちるのが当たり前」と言い、「無罪になってしかるべきだった」と説く合田氏の言葉に耳を貸さず、「懲役1年では軽すぎる。死刑になっても良かった」と自らを責め続けた。
小説『ひかりごけ』の影響
とりわけ船長にとって耐え難かったと思われるのは、「船長は弱った者から殺して食べた」という風評である。これは、作家・武田泰淳が昭和29年、この事件をモデルにした小説『ひかりごけ』を発表した影響によるところが大きいようだ。
「ひかりごけ」とは、羅臼のマッカウス洞窟に密生している、その名のごとく光る苔で、以来この事件は「ひかりごけ事件」と呼ばれるようになった。この小説の中で船長は、餓死した2人の肉を食べ、さらに、生き残った少年を食うために殺す。人間の原罪を裁く愚かさを告発したこの名作は、戯曲仕立てになっているとはいえ、その迫真性ゆえに事実と混同されたのである。
黒沢船長は平成元年に76歳で死去。直前に、合田氏とペキンノ鼻への慰霊の旅を約束していたが、果たせずに逝った。
なお、武田泰淳の小説は、平成4年、同名のタイトルで熊井啓監督により、三國連太郎主演で映画化された。